韓国の詩人、高銀(コ・ウン)
現代韓国の詩人コ・ウンの詩集を読んだ。3月30日に発行されたばかりの詩選集『いま、君に詩が来たのか』を手にとったのだ。
彼の名前はこれまでも時々聞いてはいたが、一つの塊としての詩集を読んだことがなかった。一読し、日本の読者として胸をどんと突かれるものを感じた。
彼は1933年に生まれている。植民地時代、道で拾ったハンセン病患者の詩集を読んだことから詩人を志したと、彼は告白している。当時、彼の名前は高林虎助であったことを私は覚えておかなくてはならない。
その後、朝鮮戦争で内戦の虐殺を目撃したことから、コ・ウンは自殺衝動をかかえこむ。その後何回か自殺を図る。そして70年代、民主化のため立ちあがり幾度となく拘束を受ける。その頃の詩集「夜明けの道」に含まれる「矢」という詩が心に残った。
我らみな矢となって
全身で行こう
虚空をうがち
行ったら戻ってくるな
突き刺さり
突き刺さった痛みとともに 腐って戻ってくるな
・・・
80年代になり彼の詩はますます研ぎ澄まされる。「ぞうきん」という詩がある。
私はぞうきんになりたいね
ぞうきんになって
私の汚れた一生を磨きたい
磨いた後 汚れたぞうきん
何回でも
何回でも
耐えられなくなるまで濯(すす)がれたいね
新しい国 新しいぞうきんとして生まれかわりたい
この詩は84年の詩集「祖国の星」に収録されている。
藤原書店から出版されたこの本の後書きに辻井喬が「高銀問題」として提起している。
《その第一は、彼が歌い、彼が訴えているような作品を、なぜ日本の現代詩は創ることができないのか、という問題である。》
どうして、ぼくらは彼のように祖国とか国を愛するかということを歌えないのか――。
コ・ウンは1951年出家した。一超という法名をもって各地を放浪したのだ。そのとき、韓半島の山河の美しさを身をもって知った。
近頃 私には悲劇がなかった
どうしようもなかった
それで夜明けごとに
東海いっぱいに網を投げた
はじめて何度かはいわゆる虚無を釣り上げただけ
・・・
「投網」という74年の詩集『文義村に行って』にある詩だ。東海とは日本海のことだ。この詩に出てくる海辺とは、ミニョンとユジンが別れる直前に過ごしたあの民宿があったような小さな村を指すのだろう。民主化のための厳しい戦いがあった時代と、「冬のソナタ」で豊かさを増した時代を重ねながら、この詩集を私は読んだ。
コ・ウン自身による「詩とは誰なのか」という論文が巻末にある。そこで興味深いことを書いていた。韓国では長く詩は唐の言葉として(つまり漢字)で書かれ、歌は郷語で配列されるという伝統が長く続いたというのだ。そして《古代の郷歌(ヒャンガ)と中世の民謡はその当時、詩歌を意味する文学としての詩ではなく音楽としての詩歌であった。》
思い出しておきたい。「冬のソナタ」の原題は「冬の郷歌」であったことを。ソナタというようなヨーロッパ音楽の形式ではなく、韓国伝統の民衆文化としての郷歌がベースにあることを。ユン・ソクホの中にもこういう伝統が脈々と流れている。
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