テレビの一過性
テレビドキュメンタリーを25本続けて見ている。去年制作された秀作25本だから見ごたえがある。
あらためて、まとめて見ると、その主題や素材が実に多様であることが分かる。白いライオンを探す話から若年認知症、癌末期の闘病、紀行、美術、仏教、人物伝、民俗、児童虐待から恋物語まで、よくこれだけネタがあるものだと感心するほどだ。
今朝は「満蒙開拓団の悲劇」と「児童相談所の取り組み」の2題見た。両方とも制作者の熱意が伝わってくる。前者は中国残留孤児とならざるをえなかった男性の個人史とそれをとりまく国家の策謀というロングレンジの作品、110分という長大なものだ。後者は埼玉中央児童相談所の児童虐待に対する取り組みを、現在進行形で描いた作品、45分である。
その番組に登場する人物たちの気高さけなげさに心打たれる。と同時に、こういう秀作が一回しか放送されず、世の多くの人の目に触れる機会がほとんどないということに気がついて愕然とする。
テレビ批評に対する批判がある。番組を批評したものを読んでも、それを見ていないのでなかなか批評の内容が理解できない。さりとて番組を見ようと思っても見る機会がないので、批評のあて先は制作者であって結局視聴者は置いてけぼりをくっているのではないかという批判である。
文芸批評は読者にも意味がある。その批評を読んだ後に作品(書籍)に出会う機会はありうるから。さらに、新しい書籍出会える効能もある。映画の新作批評にしても読んだあと、その映画を見る機会はある。
テレビ批評はそうはいかない。その批評を目にしたあと、視聴者がそれを見たいと思っても、それが可能になる機会はほとんどないだろう。たいていの番組は本放送だけで再放送はほとんどない。見逃したら二度と見ることができない。
テレビは時代を意識しているから、時期を失するということを嫌うことは分かるが、たった一回だけの放映というのはいかがなものか。時事ドキュメンタリーではない、人間を描いたり歴史を凝視したりするドキュメンタリーであれば、何度も繰り返して放送してもいいのではないだろうか。その場合は放送局の系列を超えて、どこかの局の深夜の時間帯にずらりと並べて見せることができないものだろうか。もちろん、著作権や出演者への再放送による支払いの経費がある程度発生するだろうが、それを負担したとしても放送局にとっても十分メリットがあると思うのだが。
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