「春のワルツ」の希望
本日の「心の時代」を見て深く感銘した。東北大学名誉教授の宮田光雄さんが人生、信仰について語っていた。熱心なクリスチャンとして生きてきた宮田さんの「信仰告白」であった。その中で、彼が尊敬してやまない、ドイツの宗教家バルトについて何度も言及していた。バルトはナチズムとも対決してひるむことのなかった信仰の人である。
宮田さんが番組の最後に紹介していたバルトの言葉が心に残る。「最後から一歩前の力を出してやっていこう」というような意味だった。最後は神が見守っておられる。だから、どんなに厳しい状況であろうとも否定されることは、最後にはない。人間としてはその究極の最後の一つ前で力を振り絞ればいいのだと、宮田さんは希望をもつことを強調する。すべてを支配する神がいるという希望がいつでも私たちの前にあるのだと語った。
「春のワルツ」のラストで主人公たちが声をそろえて「愛と希望」を語っている。この[春のワルツ」という作品においてユンさんは「許し」と「希望」ということをかなり重視していると、私は思う。
メロドラマと神の言葉をいっしょにするなんてと、言う声があるかもしれないが、私はこの点がかなり重要だと考える。メロドラマを通俗といって切り捨てるべきではないと思う。ましてユンドラマは。宮田さんも信仰と人生を考えるとき文学的にと言っていた。
面と向かって聞いたことはないが、ユンさんはクリスチャンではないだろうか。「冬のソナタ」には一人も死んだ人が出て来ないというのは大切なことですと、対談したとき高野悦子さんが語っていたことを思い出す。ユンドラマのセリフには極めて信仰的な言葉が並んでもいる。韓流ということで韓国ドラマをなんでもいっしょに括る傾向があるが、それには私は反対である。明らかに、ユン作品は他の作品とは違う。
春のワルツでは、希望ということを繰り返し登場人物は語る。けっして絶望してはいけないと説くのだ。
かくれんぼうが春のワルツの隠れた主題であることは知られている。「見えないが、そこにいる」
これは恋人同士の関係だけではないのはと閃(ひらめ)いた。それは神様のことを暗示しているのではないだろうか。神――「見えないが、そこにいる」・・・・・。
「春のワルツ」の最終回20回のタイトルは、「愛と希望の島」だ。
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