嘘と実(まこと)の間
森鴎外の歴史小説を本日続けさまに読んだ。とりわけ「大塩平八郎」と「堺事件」が面白かった。彼の歴史の扱いについては後世いろいろ論議を呼ぶところだが、小説の面白さを追求していることには共感する。
大塩の乱の当日についてはわずか10行ほどにまとめられた史実が伝わるだけなのだが、鴎外はこれを土台に“歴史小説”を作り上げている。「大塩平八郎」の付録で鴎外が興味深いことを記している。
《時刻の知れているこれだけの事実の前後と中間とに、伝えられている1日間の一切の事実を盛り込んで、矛盾が生じなければ、それで一切の事実が正確だと言うことは証明せられぬまでも、記載の信用は可なり高まるわけである。私はあえてそれを試みた。そしてその間に推測を逞しくしたには相違ないが、余り暴力的な切盛や、人を馬鹿にした捏造はしなかった。》
数少ない史実を縫って推測したが、矛盾破綻がないのでまあよしとするか、と言っているのだ。
今の目でみればずいぶん乱暴な気がしないでもないが、大正初年頃ではこういう表現が許されたのであろう。鴎外は実際こんな操作をしている。
大塩一派が乱が破れて逃走をはかったくだりだが、史実としては2月19日に事件が起こり、24日には大阪の商家に潜伏していることしか分かっていない。その間、同志の一人渡辺が河内田井中村で切腹し、またある同志瀬田は同恩地村で縊死して、いずれも22日に発見されているだけだ。それしか記録はない。そこで鴎外は大阪―田井中村―恩地村に線を引いて推測した。それによると、大塩一行は大阪から河内国を横断して大和国へ入るルートが浮かび上がり、鴎外は大阪から出て大和境の信貴越えをしたと推測して話を作っている。いかにも見てきたかのように森鴎外は書く。
《平八郎は瀬田に、とにかく人家に立ち寄って保養して後から来るがよいと言って、無理に田圃道を百姓家のある方へ往かせた。その後影をしばらく見送っていた平八郎は、急に身を起こして焚き火を踏み消した。そして信貴越えの方角を志して、格之助といっしょに、また間道を歩き出した。》
焚き火を踏み消すなどという場面など、ほとんどそこに「カメラ」があるかのような書きっぷりだ。しかし、はっきり言って何の根拠もないのだ。
ここまで書かれると本当にあったかのように思えるが、根拠はまったくない。あくまで鴎外翁の脳裏の中で浮かんだことである。こういう推論、揣摩臆測が、後に大岡昇平によって厳しく批判されることになるのだろうか。
話はガラリと変わって小松左京がこんなことを書いている。
《文学とは元来が荒唐無稽なものだ。フィクションの語源は「嘘」。そこにある素材を使って、面白い嘘をつくるのが文学だ。》
SF小説の援護の文章だが、このSFは科学を使った嘘である、ところが時々、その嘘から実(まこと)が出る、と小松は力説している。
さて、鴎外の「大塩平八郎」は現代ならばドキュメンタリーのカテゴリーだろうか、それともドラマのジャンルだろうか。このアポリアが、テレビの世界でも20年以上にわたり制作者の頭を悩ましている。
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