あしたのジョーのあの時代とは
あしたのジョーが少年マガジン誌上で連載が始まったのは1968年1月1日号からだ。それから5年間続く。この時代こそ戦後の大きな転換点になる。特に団塊の世代にとってはきわめて重要な時代となる。と私は考えている。あの時代の輪郭を極私的に描いてみよう。まずは、あの時代が始まる前のことだ。
1966年(昭和41年)、田舎の高校を卒業して私は金沢の大学に入った。2年前に東京オリンピックが行われ、徐々に日本国内の輸送交通網が整備されていた。白黒テレビがかなり普及し、全国で同じ情報が共有されるようになっていた。といっても全体としてはまだ貧しさがあちこちにあった。
金沢はさすがに北都にふさわしく犀川、浅野川という2つの大きな川のほとりに30万ほどの人が住んでいた。ちなみに江戸時代、東京、大阪、名古屋、京都に次いで、金沢は5番目に大きな町だったということを先日知って金沢のもつポテンシャルに驚いた。
金沢城を中心に町が広がっていた。大学はその城内にあったので何処へ行くにも便利であった。大手門を降りたすぐ傍にNHK金沢放送局があった。そこから50メートル先の中町の仕舞屋に私は下宿した。代々金沢藩の御典医だった家で間口は狭いが奥行きの深い大きな家だった。女系一家でおばあさんと未亡人とその息子がいた。下宿人は大学生が私を含めて二人、短大生が一人、そして社会人がいた。彼は私と同年の新米警察官だった。
4月、入学してまもなく下宿の先輩とおばあさんと3人で兼六園に花見に行った。北国の春は華やかだ。長い雪の暮らしを終えた喜びがあふれ出る。おおぜいの人が出ており夜店も並んで賑やかであった。広坂通りまで出たときだ。
遠くで騒ぎが起きていた。石浦神社の交差点あたりが騒がしい。かすかにスピーカの声が聞こえる。なんだろうと私が首をかしげると、先輩は学生デモさと答えた。これがあの60年安保のときに勇名を轟かしたデモかと珍しく眺めた。
人びとはそんなデモにも目をくれず、兼六園の大小の桜の樹木に見入っていた。今思い出しても清親の絵のような幻燈イメージの花見だった。与謝野晶子ではないが今宵会う人皆美しき、と18歳の私は思った。その2年後にこのデモの数百倍数千倍大きな闘争の炎が全国の大学で燃え盛るとは夢にも思ってはいない。
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