あの時代
昨日、護国寺にある講談社の大ホールで「あしたのジョーの、あの時代」のロケ収録をした。
会場は、37年前に「力石徹の告別式」が行われた所縁の場所である。ここに当時と同じくリングを設営し、ジョーと力石の大きなパネルを飾りこんで、トークの舞台とした。
司会は団塊よりちょっと下の夏目房之介さん。広い意味でのベビーブーマーだ。ゲストは宮崎学さん、残間江梨子さん、猪瀬直樹さん、である。朝7時から準備が始まり午後5時過ぎ、無事収録を終えた。詳細は3月24日放送のETV特集「あしたのジョーの、あの時代」をご覧いただきたい。印象に残ったことを1つ2つ書いておこう。
突破者、宮崎学さんは実に魅力的な人物だった。1968年当時、早稲田大自治会の活動家としていわゆる全共闘とは対峙する関係にあったのだが、心情はほぼ同じであったようだ。当時の時代の気分というものを明快に語ってくれた。70年への戦いは政治闘争ではない、もしそうであるなら結果を得ることが目的化するはずだが、そうではなかったと言い切ったことが心に残る。
「あしたのジョー」が少年マガジンで連載された68~73年という時代は、70年安保を政治課題とした新左翼の時代にあたる。いわゆる全共闘が時代の前面に踊り出た時代である。このヘルメットと角棒の風景はいつも男中心で語られてきた。今回、残間さんは団塊世代の女の立場というものを鋭く指摘してくれた。
当時、女子の進学といえばほとんどが短大を目指した。残間さんもその一人で20歳で就職することになるのだが、当時女子は25歳が「定年」であった。在勤年数はわずか5年しかない。アナウンサー就職の面接で「25になったらどうしますか」と聞かれて残間さんは「その年になっても会社が残しておきたいと思われるように頑張ります」と答えたら、試験に落ちた。戦後20年以上経っていても女性の社会進出は困難なのであった。戦後民主主義教育で男女は平等と習ってきておきながら、社会に出る鳥羽口で拒否されたのだ。
あの当時、女はいらないと社会から締め出されたことが団塊世代女子の“傷”になっていると残間さんは言う。今少子化晩婚化が問題になっているが、実はその人らの母親は、女子に自由にさせてやりたいという思いがあるからだ、という残間さんの指摘は心に残った。
講談社は戦災にも焼け残り戦前の古い建物のままである。内部は相当改築されたが、今回会場となった講談社大ホールは昔のままの佇まいを残していた。37年前にもここに500人のファンが集い、力石の死を悼んだのだ。ここに立っていると当時の子供や若者の咆哮が聞こえてくる。「力石を殺したのは誰だ!」
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