なぜか惹かれる大木惇夫
大正の終わりから昭和のはじめの頃、口語自由詩が盛んになった。そういう時代に背くように大木惇夫はそうではない文語体の詩を書いた。
あやふきもの
ふきの葉のかたむきて
なほしろきつゆのためたる
あやふきぞ げにもあやふき
わがいのち わがくらし
わがこひも わがうたも
秋の、寒さが厳しくなる朝。ふきの葉の上に光る水滴。ころころと転がって葉から水滴がこぼれ落ちそうな気配、まさしく危ういものに思える。そんな頼りなげな我が命であり我が恋でもある。
言葉はイメージを呼び起こすが、そのイメージを活き活きと動かすのは、言葉の律(リズム)であり調子であろう。大木の文語体の調子は、口ずさむ者の身内を躍らせる何かがあるのだ。
大木の詩は黙読だけではつまらん。声に出して、調子をとって読む。すると体の奥底からデモーニッシュなものが頭をもたげてくる。真逆の立場にあるのだが、中野重治の詩にもよく似たものを感じる。ことに「雨の降る品川駅」はもたげるものを押さえるのが難しいのである。
雨の降る品川駅
辛よ さようなら
金よ さようなら
君らは雨の降る品川駅から乗車する
李よ さようなら
も一人の李よ さようなら
君らは君らの父母の国にかえる
君らの国の川はさむい冬に凍る
君らの叛逆する心はわかれの一瞬に凍る
・・・
こうして中野の詩は続いてゆくのだが、読むうちに熱いものを感じるのだ。中野の詩は大木と違って口語で書かれているのに。
再び、大木惇夫の詩を引く。
をさなかれとも
をさなかれとも ねがはぬに
などか をさなきわがこころ
柑子(かうじ)の梢(うれ)にのこる果(み)の
いつまで青きわがこころ
そんなつもりはないが、どうしても子どもっぽくふるまってしまう。還暦をひかえる年齢になっても、ひとをこひすることを、未だに思う私よ。冬枯れの野にみかんの木がぽつんとある。そこに取り忘れたみかんがある。その黄色が目に沁みる。
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