尋ね人の時間
最近、街角ですれ違う人の特徴から昔の同級生を思い出すことが多くなった。その人自身と出会うわけではない。その人の特徴を彷彿とさせる同系の人を見ると、その人物を思い出し無性に逢いたくなる思いがつのる。といって、逢えばそれほどの感慨もあるわけではないが、どこに住んでどうしているのかぐらいだけ知れればいいのだが。おそらく、その人を恋しいというよりその時代の自分を取り戻したいという欲求がそうさせているのだろうか。
さて、現在は人を探すのがとても難しい時代になった。理由は大きく2つある。一つは個人情報の守秘が厳しくなったこと。もう一つは人の流動化が従来の数十倍数百倍激しくなったことだ。
私のディレクター駆け出し時代には、お寺の過去帳というのは簡単に閲覧できた。歴史的な人物などはそれを頼りにすればかなりの情報を得ることができた。況や住民票、戸籍、同窓会やもろもろの住所録などを使えば、それなりの消息というのは把握できた。
むろん、今ではそういう個人情報は無断に使用したり開示したりすれば、それなりのペナルティがつけられることになる。情報時代ゆえ、情報が悪用されれば大きな被害を受ける恐れがあるから当然の措置だとは思う。
だが一方、私たちには「ノスタルジー」というものがある。団塊も還暦をむかえる頃になると、“行く末”より“来し方”への関心のほうが大きくなるのだ。ああ、あの人は今どうしているのだろう、元気でいるのやら、と夜更けや明け方に思って眠れないということが、しばしば起こるのだ。こういう感情は若い頃には思いもよらなかったが。
年賀状をやりとりするぐらいの親しさであれば、それなりの情報もつかめる。困るのはまったく接点がない人物の場合だ。私自身も冷静に考えれば逢いたいという理由が見つからないような人物なのだが、いったん面影または名前がぽつんと心に浮かぶと、逢いたいという思いが「つのる」のだ。つのるを括弧にしたのは、この言葉本来のような激しい感情ではないからだ。逢いたい、逢って消息さえ分ればいい。ときには逢わなくてもいい、ただどんなふうに生きているかだけ知ればいい。という程度の感情なのだ。だから正面きって探すのもきまりが悪い。
具体的にいうと、田舎の小学校で同じクラスだった子、転校していった子、中学校でクラブの先輩だった人、大学でコンパを共にした人、旅先で知った人、長く通った酒場街のマスターや常連客。人の紹介で逢った人。もっと縁が薄く、ただ何となく気になっていた人。
しかも厄介なことに、これらの人が異性であればなおさら探しにくいし会いがたい。
若い人たちは、ミクシーなどソーシャルネットワークで、そういう人探しが簡単にできると聞く。われわれのような中高年にはネット人口が限られているし、そういうネットワークに参加する機会も相当少ない。
そこで私は夢想する。ネットの「尋ね人の時間」ができないかと。おそらく掲示板などでは一部そういうこともやっているだろうが、私はもっと大規模なシステムを夢想するのだ。
「昭和19年、中国青島、○×区にお住まいだった△○さん、…」と昭和30年代までラジオで放送された「尋ね人の時間」。これと同じようなことを期待するのだ。
もちろん、情報の管理、秘匿という重要な機能を、きちんと責任をもって行うような機関。そういう公明な機関が運営するような「尋ね人の時間」。
そういうものが出来ないかな。有料でもいいんだよね。
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