パリの冬の空は美しい、とりわけ夕暮れは。
シベリアを越えながら思い出しつつ
このブログの文章を帰国のJL406便の機内で書いている。あっと言う間に過ぎた5日間のことを思い出しながら、室内灯だけの薄暗い中でパソコンの画面に向かっているのだ。窓をそっと開けると満天の星の美しい空が広がりジェットストリームが激しい勢いで後方に流れてゆく。シベリアを越えてゆく夜間飛行に今私は搭乗している。
今回のフランスへの旅を通して、娘をもった父親の気持ちというのが初めて分かったという気がした。私自身、男三人兄弟で育ちしかも長男だったので、いつも人生を硬く考え、育児についても無骨な態度で実行してきた。
二人の子供に恵まれて下が女の子と分かったときは複雑な心境だった。女の子の心境が分かるかなあ。たくさんの文学を読んできたから、女の心は知っているつもりではいたが、女の子の気持ちは分かりにくく本当のところ自信がなかった。
その子が生まれたとき、私は38歳の遅い父親であった。今年、ようやくその子は成人をむかえる。
あっツンと呼ばれるその子は、親の心配することなど何処吹く風で元気のいい女の子であった。というか煩くて喧しい赤子だった。なにせ成増から池袋まで準急でわずか15分の道のりですら我慢ができず、泣き喚くやんちゃな娘だった。
その子が幼稚園から小学校6年まで、私が一番忙しかったときだ。子どもの身の上に何が起きているか知らなかったし、ホントのことを言えば関心がそれほどなかった。私は番組を作ることに夢中だった。だから、家族は私を除いて団結することになった、ようだ。近所の人といっしょにうちの家族は浦安のディズニーランドへよく出かけたらしい。大磯の我が家にも中学高校の友達がよく来て、みんなで大飯をくらったりして騒いでいたらしい。息子と娘らにそういう時代があったことを、最近になって私は知るばかりで、当時はまったく知らなかった。
特に、娘にはどう対応していいか分からないから、中学校の2年ぐらいから高校卒業までまったく没交渉となった。辛うじて、接触したのは大学受験のときに作文のことで、いくつかアドバイスしただけだ。
ああそうだ、大事なことを思い出した。1995年に私が脳内出血で長期に入院したときだ。娘はまだ3年生だった。それが、私に手紙を書いてくれた。「パパアー、死なないで」。
状況をきちんと分かって書いたわけではないだろうが、それでも私は読んで不覚にも涙が出た。俺みたいな勝手な父でもそうやって信じていてくれるのかと。
その娘が今パリにいる。下の子なのでいささか過保護で甘やかしてきたと思っていたから留学すると聞いたときは大丈夫かと少し危ぶんだ。1年間、学部でフランス語の基礎を学んで行くことになったが、向こうの語学学校についてゆけるだろうかと心配した。
昨年の9月に出かけたからかれこれ4ヶ月になる。国際ケータイでときどきメールをしてくるが、それを読むと楽しくやっているらしいが、親としてはいささか気がかりで今回休暇をとって私一人で視察することにした。むろん、久しぶりにパリの街を味わいたい気持ちも私には半分以上あった。
だが旅するにあたって気がかりなのは、娘と二人だけで4日間もいるということだった。これまでそんなことは一度もない。だいたい私と娘はソリが合わず、いれば3時間もたたずに口喧嘩する、「犬猿の仲」だ。5日間を穏やかに過ごすことができるだろうか、そのことがきがかりだった。・・・
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