ダビデ主義に警戒
緩やかな保守主義を標榜する政治学者阿川尚之と同じ立場には立てないが、今朝の読売朝刊で彼が語ったことには一部共感した。
現在の日本の評価をダビデ主義で見るかメシア主義で観るかと二者に分けて択一で考える傾向があると指摘する。昔の日本はよかったというダビデ主義、現状は悪いが将来救いが生まれるというメシア主義である。いずれにしろ、現在の日本を悲観的に見ているのだが、阿川はそれほど今の日本が悪いというわけでもないと考えているというのだ。
そして今日の夕刊は、家庭内虐待を防ぐために法律で立ち入りの権利を拡大しようという法案が練られていると報じていた。毎日のように相次ぐ虐待に胸を痛めるが、性急に国家権力の介入を推し進めるのはいかがなものか。まだ議論が積みあがっていない、いやまだきちんとした議論が始まっていないのでは。メディアもこのことに関してさらにたくさんの実情リポートを送り出すべきであろうし、市民の側でもわがこととして議論していかなくてはなるまい。現状を改革しようとするあまり、昔はよかった、昔の教育で、というせっかちな施策、対策は好ましくない。
ちょっと「昔」の時代にあったという陰惨さを、私たちは学習しているだろうか――。
ネットをクルージングしていたら、こんな新聞の投書の記事を見つけた。2004年の投書だ。
朝日新聞「声」(12月18日 無職 橋詰四郎 愛知県豊明市 79歳)
ぬかるむ土に土下座した母
♪日の出だ日の出だ
鳴った鳴ったサイレン
うれしやかあさん
皇太子さま おんまれなさった
12月になると、なぜかふとこの歌を口ずさむ。私が育った地区では冬の朝、たき火で暖をとる習慣があり、昭和8年の冬の話題は、国民が願望する皇太子ご誕生だった。誕生に際してはサイレンを鳴らし、1回が皇女、2回は皇太子という通達も出た。12月23日の朝、たき火を囲んでいたときに、サイレンが鳴り響いた。大人たちは「男、男」と声をあげた。サイレンの音が小さくなれば、「もう1回」の連呼に変わり、再びサイレンが雄々しく鳴り出すと「万歳、万歳。皇太子様だ」と大歓声をあげて喜んだ。吹鳴はやんだが、大人たちはざわめいていた。そんな時、母は「もう1回鳴ったら火事だよ」と言った。後ろの大人がすかさず「この罰当たり」とい怒鳴り、背中を強く押した。母はたき火のなかに放り込まれた。母はたき火で霜が解けてぬかるんだ地面に土下座して、一人ひとりのひざにすがりながら、何度も何度も頭を下げていた。
記事のウラをとってはいないから真偽のほどは分からないが、戦前にこういうことがあったことは想像がつく。これと同様のことを私は映画で観たことがある。今村昌平監督の「復讐するは我にあり」だ。連続殺人犯人の少年時代のエピソードがそれだ。
五島列島に生まれた犯人は、戦時中父が警官から足蹴にされる光景を目にした。彼の一族はキリシタンであり皇国史観とは距離をおいていた。そのことで権力から日頃から睨まれていたが、ある時軍の徴用として漁船の供出を巡査から求められる。父が言を左右にしていると、巡査は突然足蹴にして父を半殺しのめに会わせる。仕方なく父は船を差し出すことになるという場面だ。足蹴にするシーンはドラマと知っていても瞋恚の炎を燃やすものであった。
私たちの祖先はこういう苦渋を噛み締めながら、現在の民主主義を克ちとって現在に至っている。そのことを心に刻んでおかなくては。
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