半日の閑
西行の歌
山里にこハ又誰をよぶこ鳥独すまむとおもひしものを
この西行の歌を私風に解釈すると。せっかく山里に一人住まいしているのだから、なぜわざわざ友を呼ぼうとするのか、呼子鳥さん。といった意味であろうか。
この歌を引用して、芭蕉が《独住ほどおもしろきハなし》と「嵯峨日記」で書いているそうだ。
安東次男著作集第2巻に書いてある。芭蕉はこの歌に合わせて木下長嘯子の言葉も引いている。
《客は半日の閑を得れバ、あるじハ半日の閑をうしなふと》やってくる友は山里のわびしさを楽しめるが、訪問を受けた主は独りの楽しみを奪われることになる。だから一人住まいも悪いものではない。
さすが人気者芭蕉だ。彼を訪ねてくる者はひきも切らなかったのだろう。同朋連衆といつもいるよりもたまには一人もいいということか。
だが「嵯峨日記」の状況をよく考慮すると違った味わいも出てくる。
この日記は京都嵯峨野の落柿舎で書かれたものだ。つまり芭蕉は向井去来の居候を演じていた。雨で訪れる人もなく「さびしきままにむだ書してあそぶ」芭蕉。楽しんでいる。だが楽しむ芭蕉は客。あるじは去来だ。とすれば、半日の閑を得ている芭蕉は客として当然のことだ。半日の閑を失ったあるじはなんのことはない去来だ。芭蕉というオッサンはけっこう図々しい。
考えてみれば、私も大磯紅葉山に住むというのも閑居のようなものかもしれない。が、私の場合は友を呼ぶのは嫌いでない。ただ遠すぎること、山の上ということで、近所の人以外訪ねて来る者がほとんどない。寂しいような楽しいような心地か。
下界は年の瀬ということで慌しいようだ。(テレビがそう伝えている)ここ紅葉山はおだやかな師走の空が広がり、山のカラスがのんびり鳴くだけだ。
半日の閑をえたる師走かな 光丘登羊亭
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