冷たい雨が降る、東京にサンチャゴに ②
ピノチェト政権は、自由主義的政策をとった。経済官僚としてシカゴボーイズというシカゴ大学のミルトン・フリードマンの弟子筋を、ピノチェトは登用した。そして85年から98年まで順調に経済成長して、「チリの奇跡」ともてはやされるようになった。この言葉を最初に使ったのはフリードマンである。自分の考えの新自由主義がうまくいったと喜んだのだ。当然、この政権に反対する人たちからはフリードマンは「独裁を支持した自由主義のドンキホーテ」と批判される。
このときのチリは貧困層に苦難をしいて、一部の富裕層と外国資本が大きな富を手に入れることに加担していたのだ。と厳しく指摘するのは、経済ジャーナリストの内橋克人氏だ。彼の最新の著書『悪夢のサイクル』では、チリに経済政策を指南したことになるフリードマンを厳しく弾劾している。
アメリカ大恐慌が起きた後、ケインズが唱えたように市場に政府が積極的に関わる公共政策がとられてきた。大きな政府で、富を富者から貧者へ再配分するシステムであった。
ところがベトナム戦争で失敗した頃からアメリカの経済がおかしな雲行きになっていった。インフレと失業がうまく退治できなくなってきた。
そのとき、フリードマンは
インフレ退治を貨幣の供給量をコントロールすることで出来ると考えたのだ。いわゆるマネタリズムの考えだ。マネタリスト、市場原理主義者の登場だ。こうしてすべてを自由にするという活動を基本にした市場原理主義(ネオリベラリズム)が、次第に大きな力を持ち始め、レーガノミックス(レーガン政権)や英国のサッチャー政権の経済政策の理論的支柱を提供することになる。
このやり方を真似たのが小泉政権による規制緩和路線である。竹中平蔵らは積極的にマネタリズム路線の経済政策をとってきた。其の挙句の国民の中の経済格差の拡大であった。
持てるものはさらに多く、貧しい者は努力が足らないと切り捨ててきたのである。福祉のばらまきが勤労意欲を失わせ、経済の活力をなくすと言ってきたあのやり方だ。
そもそもは、ユダヤ移民の貧しく苦難に満ちた環境から出発したフリードマンだが、彼の唱えた手法というのは強者の経済でしかなかった。彼の影響下でチリの人たちは苦難を味わったのだ。そのほかにも被害はあるだろう。日本もその例外ではないと思うが。
そのフリードマンは1976年にノーベル経済学賞を受賞し1988年にはアメリカ国家科学賞と大統領自由勲章を授与されている。西海岸の大邸宅に住んで優雅な老後を送った。
そして今年の11月16日 、心臓疾患のため死去。
ピノチェトとフリードマン。二つの死。
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