終わりのつけ方
先日の日曜日午後に、知人のドキュメンタリーが放送された。プレミアム10「この世界に僕たちが生きてること」の再放送である。
主人公の河合正嗣さん29歳は、愛知県豊田市旧下山村に住んでいて筋ジストロフィーの障害を生きている。彼は双生児であった。その弟は同じ病を生きていたが、数年前なくなった。残った正嗣さんはその弟の遺志を引き継いで懸命に生きている。
この兄弟には絵を描くという才能が天から与えられた。画家として素晴らしい作品を二人は数々残してきた。そして今、正嗣さんはシリーズ「ほほ笑みの絵」に取り組んでいる。
彼の通う病院の患者や医療関係者の笑顔110枚を描くのだ。衰えた筋肉を使って描く作業は、文字通り一筆一筆の気の遠くなるようなものだが、出来上がってゆく絵は見事だ。
病魔は彼の声まで奪ったので、かすかに漏れる声が、字幕を通して視聴者に届けられる。その一言一言が実によく考え抜かれた言葉として、主人公の「知性」は見るものに感動を与える。
彼は父母や姉妹に支えられて、山村に暮らしているが、その周囲の環境が美しい。番組の折々に入る、麦畑に風が渡るシーンは美しい。
この作品はほとんどの点で優れているといえるが、1つだけ大きな失敗をしている。
この番組の企画はよい。私の企画の持論である、1ヒト、2、ウゴキという企画の要件を満たしていることは間違いない。まずヒト、河合正嗣さんという人格は魅力的だ。ウゴキ。これは110枚のシリーズに取り組むということだ。
ところが、そのウゴキが揺れるというかたくさんあって物語が定まらないのだ。
110枚の肖像画を描くというウゴキの途中で、新しいウゴキ―100号の油絵に挑む―が浮上するというように、一定のウゴキで止まらないのだ。
番組はウゴキが一つということでなく、次々にずらして異なる局面として現われてくる。この点において、私は違和感をもった。これでは現実に引っ張られているだけであって、何をつたえたいかという制作者のメッセージが希薄になってゆくのだ。
90分の番組の時間は、2年間に渡る密着取材で構成されている。長時間にわたり取材することの誠実さや厳密さは分かるが、番組としてはいかがなものか。誤解を恐れずに言えば番組が間延びしている。見ている側のことを考えず、作り手の側からこの作品を提出している。この番組にはディレクターはいるがプロデューサーは不在だと思った。
河合隼雄さんからカウンセリングの時間について聞いたことがある。カウンセリングの大切なポイントに何時どこで終わるかということがあるというのだ。ただ、相談をだらだらと続けて長く行うことがいいわけではない。ある「物語」の終わりが見えたとき、すかさずそこを逃さないことが大切だと言った。通常は時間切れという形をとる。つまり、所定のカウンセリング時間、1時間なら1時間経ったところで、はい終了しますと宣言するのだ。
こみいったカウンセリングでもクライアントの方からそろそろ終わりだなというサインが出てくる。そこをつかまえて終わりにすることだ。これをしないでやみくもに長く行う相談はよくないと、河合さんは語った。
番組作りも同様である。取材をだらだら長く行うのはよくない。番組時間も長ければいいというわけではない。所定の時間枠というのがあって、テーマにふさわしい時間枠を、作り手は選択せねばならない。
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