家族という物語
週末、ずっと子供の虐待についての本を読んだり考えたりしている。
保護施設に入ってきた1年生の男の子が書いた3つのオネガイがしみる。
《1つめはおかあさんがぼくをたたかないようにしてください。2つめはおかあさんがちゃんとごはんをつくってくれるようにしてください。3つめはおかあさんがテレビゲームばかりしないようにしてください。どうぞかみさまおねがいします。》
1つめは普通でないだろう。だが2つめ3つめはどの母親だってありうることだろう。子育てをしていて時々放棄したくなるのは分からないでもない。育児放棄までいかなくても育児怠慢は誰しも一度ならず考えることだ。
その誰しも考えることが度を過ぎるというところに病理を感じる。それは母親の病理なのか、母親に心に病むところがあるからか。それとも夫婦の病むものがそういう形で現われているのか。家庭をとりまく親族、近所などの社会(という大袈裟なものでなく世間というほどかも)が支えるという働きが低下しているからか。こういう要因が複合して、母は子供を虐待するのだろうか。(虐待は母だけではないことは承知しているが、今焦眉の事例はまず母から始めなくてはと私は考えている)
児童虐待というのはいつの世にもあったというのは当然だ。江戸時代でも角兵衛獅子の虐待や継子イジメというのは芝居や落語にも出てくる。黒澤明「赤ひげ」でも虐待されてアパシーになった少女を仁木てるみが演じていた。ドラマと分かっていてもその悲痛な叫びは心に響いた。
だが今起きている虐待はそういうものと少し違う気がしてならない。戦後、家というものが解体されて、核家族化というものがすすんだ。一族が同居したり3世代が同居するようなときにあった「構造」が壊れた。
そうやって生まれた核家族では孤立した母がひとりで問題をかかえこむ状況になった。生活の近代化は移動を促し、家族は地域との関わりも薄くなっていった。ヒューマンネットワーク、地域ネットワークがずたずたになり、家族はぽつんと孤立しているのだ。その真ん中に母がさらに孤独感を深めている。
結論を出すには早いと知っているが、この現状に対抗するとりではそれでも「家族」という物語の回復ではないかという気がしてならない。
いや、その家族こそが障害を起こしていて、弱いこどもという部分に向かっているのではないかという反論もあろう。
そういうマイナス要因もあるだろうが、その傷口を治癒させるものは家族しかないのではないだろうか。
私は反虐待キャンペーンの番組の柱に「家族の治癒力」というものを仮説として立てて、番組の企画を考えようかなと今思っている。
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