ヴァルネラビリティ(脆弱性)
コンピュータなどですぐ壊れる部分をヴァルネラビリティ(脆弱性)という。核軍事の用語でも使われる。核戦争を想定して作戦を立てた場合、どの部分が弱いかということを指し示す言葉である。
山口昌男はこの語を攻撃誘発性と訳しているということを、大江健三郎が援用して核兵器について語ったことがある。テキサスのパンテックスという核兵器工場の風景を見て思わずヴァルネラビリティを口にしたのだ。工場内に核を搭載した列車が並んでいる。それはいかにも核攻撃を誘発させんばかりの「脆弱性」があったのだ。
このヴァルネラビリティというものをもつ人格というのがあるのではないだろうか。相手の攻撃を誘発しやすいというかいじられやすいというか、怒られやすい性格だ。
小松左京のことだ。彼はヴァルネラビリティがあるのではないだろうか。1970年に日本で世界SF作家会議が開かれたとき、日本側の最高責任者にもかかわらず、彼は事務局長の大伴昌司にこてんぱんにやっつけられている。
大伴の言い分はこうだ。きちんとした裏づけ、資金があるわけでもないのに、対外的に大風呂敷を広げてばかりいる。依頼された原稿が締め切りに間に合わない。とやることがいい加減なのだ。そこで大伴はのべつまくなしに癇癪を起こしていた。
この大伴の態度が横暴だという声が、SF作家たちの中から澎湃と起き、大伴の進退問題に発展した。まあ、やりすぎじゃないのと私なども大伴昌司に分が悪い印象をもったが、そうとも言えないかと、思わせる小松の文章にであった。どうも大伴の横暴以前に、小松のヴァルネラビリティがあるのではと思うのだ。
彼は京都大学入学時から、高橋和巳と仲間で長く同人誌をともにやってきた。高橋といえば70年代に私たち若者の心を掴んだナイーブな純文学の作家だ。二人がそれぞれ結婚したまもない頃の話だ。小松が高橋追悼の文章でこう記している。
《私自身も、彼から2度だけ猛烈におこられた事がある。二度とも金銭のことだった。(略)
彼に結婚資金をかり、それをかえしに行って、留守だったので、メモをそえてドアの下からつっこんでおいたのが紛失してしまったときである。私は彼によびつけられ、「だらしなさ」を痛罵され、団地のダストシュートの底をひっかきまわしてさがしたが、彼の大袈裟な痛憤ぶりがおかしくてついニヤニヤした。そのニヤニヤが彼をまた怒らせた。》(『高橋和巳の青春とその時代』小松左京編 構想社 1978年)
この小松の「だらしなさ」「にやにや」が、高橋だけでなく大伴をもして怒らしめたのではないだろうか。彼のそういう体質は関西風ナポリタンによることが多いと、私は見ている。
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