解けないテーマ
私がいつもお手本とした、クドーさんというプロデューサーがいる。ディレクター時代は「廃船」とか「富ヶ谷国民学校」といったフィルムドキュメンタリーの傑作を作り、プロデューサーのときは「2・26事件」や「ぐるっと海道3万キロ」など話題作を立ち上げた人物で、テレビドキュメンタリーの礎を築いた。10年以上前に他界した。時に58歳、今の私と同じ年齢である。早すぎる死であった。
晩年の10年、ちょうどバブルの頃、私はよくクドーさんに連れられて新宿、浅草と飲み歩いた。直接の上司ではなかったが私はクドーさん流の生き方に憧れて、後を追ったのだ。素面の時は鋭い質問が飛ぶが、酒席はまったくの無礼講だった。
この人はいつも時代を読んでいたと、今になって思う。映画「男はつらいよ」を欠かさず見ていたのも、山田洋次監督はこの時代をどう見ているのかと時代の気分を測っていたようだ。話題の本や流行の現象について、周囲の人間によく意見を求めていた。酒席で問われたりすると、私も気が緩んで出任せに返答したものだ。そういう場ではクドーさんはニコニコ笑って聞いていた。
しばらく経って忘れた頃に、その話題がリターンするのだ。「そういえばこの間の件だけど…」とクドーさんはやんわりと話かけてくる。矛先は徐々に厳しくなり、あいまいな返答では解放してくれなくなる。どんな根拠でそのような答えになるのか、情報の正確さと論理の整合性をきっちり求められた。
昭和59年頃、クドーさんはさかんに「ウォーターフロント」にこだわっていた。たびたびこの聞きなれない言葉について質問された。私の知識では、かつて赴任したことのある長崎の大浦埠頭の再開発やボストンのモール計画についてしかなく、それらしい答えを述べたものの、どうもクドーさんはピンとこなかったようだ。
1年後、「ぐるっと海道三万キロ」という番組が登場した。クドーさんの肝いりだと聞いて、唖然とした。私は単なる知識としてウォーターフロントを語ったのだが、クドーさんは番組の機軸として、この概念を用いたのだ。プロデューサーのまさに模範だった。
クドーさんの中では、企画と話題がストレートに結びつくわけではないのだ。話題となる事柄や事象を問いただしてそれがクローズアップされる所以をつきとめた後、その所以を新しいステージに転換させて番組化をはかる――そういう手際を私は「クドーマジック」とよんでいた。
最晩年、なつメロ酒場で戦前のジャズシンガー、川畑文子の歌声を耳にしたときのことだ。「これを調べてみたら」といってクドーさんはニヤリとした。どんな理由で、なにがおもしろいのか尋ねてもいつものクドーさんにもどっていて取りつくシマもない。その後いろいろ調べたが番組化する糸口さえ見つからず今に至っている。何か、宿題をまだ残している気分だ。
川畑文子について言い添えておこう。アメリカ生まれの日系ジャズ歌手で、戦前日本で活躍した人だ。独特の歌い方で、この影響を受けたのが、「上海バンスキング」で見事な歌を見せた吉田日出子だ。あの歌い方こそ、川畑文子なのだ。
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