論ずるとき自分はどこに居る
今朝のワイドショーを見ていたら、岐阜県のいじめで自殺した女子中学生の話題をとりあげていた。キャスターもリポーターも、同情と義憤のあまり涙ぐんでいたりまぶたを赤くしたりしていた。いじめの事実をめぐって二転三転する学校側に対して、こういう状況だからこそ子供が犠牲になるのだと、キャスターは怒る。
いいよなあ。キャスターは傍観者として、取材結果に基づいて学校関係者たちの無責任ぶりを非難していればいいのだから。この問題の渦中に入らず、外から対応すればいいのだから。とこうやって茶々を入れれば、きっとWATANABEキャスターは、「私たちはそれを伝えるのが使命ですから」と抗弁するだろう。
最近この局のワイドショーは正義を掲げて、怒ったり叱ったりすることが多くなった。「恥知らずの現場」というリポートでは不法投棄したり暴走したりする者を、リポーターが現場で叱るのだ。「あなたは、こういうことをしていいのですか?!」と“犯人”を断罪するのだ。時々、切れた“犯人”が開き直ったりすると、「自分の悪いことを反省しないで、よくそんなことが言えるものだ」と言ってどやしつける。まるで桃太郎侍だ。見ている視聴者はともに溜飲を下げるということか。このシリーズが続いているということは、おそらく受けているのだろう。だが、何か違和感をもつのだ。
しょせんテレビは話題になったときだけの係わり合いでしかないのではないか。仮に不法投棄をする人を目撃して説得したとして、その場面だけであって、その次の日、さらにその次の日に同じようなことが行われても、テレビは関知しないだろう。テレビというシステムでは日常性というところには立たないからだ。ということは、現在話題となっているいじめにしても話題性をなくしたところではけっして後追いもしないだろう。そういう“態度”が見えるし、視聴者もこれまでの経験でテレビの一時性ということを知っている。
そういう関わりしか出来ないものが、涙ぐむなどというのは過剰な表現ではないかと、つい言いたくなったのだ。
テレビは観察者、批判者にとどまって解決を目指すことができるのか。本当に治そうと思うなら、その中に入って当事者として関わり考えなくてはいけないであろう。このところ起きているいじめによる自殺は、やや連鎖反応の情勢が露になってきた。こういう時期だからこそ、マスメディアは案件を取り上げるときの姿勢が問われるのではないか。
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