憲兵への恐怖
20世紀学の主任教授、S先生の専門は歴史学である。ナポレオン研究の第一人者だ。その先生のもう一つの研究テーマが「戦争の記憶」。文献や碑文などから探るほかに、映画に表れた戦争の記憶も調べている。そういうこともあって先生の研究室には珍しい映画のビデオ、DVDが並んでいて、私もときどき借りる。
新東宝の憲兵シリーズを借りた。このシリーズは元憲兵大尉という経歴を持つ作家・小坂慶助の『のたうつ憲兵』を原作から始まったらしい。並木鏡太郎監督で映画化された題は、「憲兵とバラバラ死美人」。いかにも新東宝らしい猟奇的なネーミングだ。
昭和12年秋、歩兵部隊の炊事場にある井戸からバラバラの死体が発見された。この奇妙な事件を解くために腕利きの憲兵小坂(中山昭二)が派遣される。死体は陸軍病院でバラバラにされたらしい。怪しい男、恒吉軍曹(天知茂)が浮かび上がる・・・。
もう一本は「憲兵と幽霊」。監督は、あの中川信夫だ。
ある日、憲兵隊で軍の機密文書が盗まれた。波島少尉(天知)はそれを田沢伍長の犯行と断定。無実の彼に自白を強要するうち波島は田沢伍長を射殺してしまう。実は波島は以前から田沢の美人妻(久保菜穂子)に思いを寄せていたのだった。やがて田沢の亡霊が現れてくる・・・。
中川監督の名作「東海道四谷怪談」を彷彿とさせる物語だ。
憲兵とは、軍事警察権および、普通警察権を行使できる軍人のことである。 軍事警察とは、第一に軍事司法警察であり、これは軍事に関係した犯罪を対象とするもので、軍法会議法等の法令に従う。軍事警察の第二には、思想調査などの特高的任務を指す。
故郷に帰って映画好きの母にこの2本を見せた。すると、母は自分の体験を語り始めた。
昭和20年初夏、戦争末期、母は少年飛行学校の経理で事務補助をしていた。19歳の時のことである。そこでは1000人近い少年兵の食糧を管理していた。上司のEはある城下町の老舗の御曹司で、30近い男であった。兵役は一度すませていた。
飛行学校の本部には横柄で威張った下士官がひとりいた。尊大な態度で母は虫が好かなかった。
戦局が悪化して、周りの男たちは次々に召集されてゆくようになっても、体格のいいEには赤紙がなかなか来ない。それを母はフシギに思っていた。
7月、Eとその下士官は憲兵によって突然逮捕された。汚職の容疑である。
Eは1000人分の食糧の上前を少しずつはねて横流ししていた。そこで得た儲けを例の下士官に賄賂として渡していたのだ。その下士官は召集令状を発行する立場にあり、Eの召集を握りつぶしていたのだ。二人はすぐ牢屋に入れられ、尋問が始まった。
母もEの近くにいたので憲兵から尋問されるかもしれないという噂が流れた。母はおびえた。何も加担してはいないが、傍にいたというだけで罪を問われるかもしれないと恐れたのだ。祖父も祖母も、もし娘が憲兵隊に引っ張られたら恥だと、悩み慄いた。
結局、母は憲兵の取調べを受けることはなかった。下士官は朝鮮の前線へ飛ばされ、Eは営倉へ入れられた。
―― それから程なく終戦となる。Eはこのどさくさでうまく逃れた。釈放されたのだ。戦地に行った下士官はどうなったかは分からない。
60年も前の出来事だが、母にはこのとき味わった恐怖感が今も忘れられないらしい。憲兵への恐怖を語るとき母は顔がやや歪んだ。
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