自己実現
年をとるにつれてますます生き方が分からなくなった。
今朝の読売新聞で50代の主婦でもジャズ歌手としての自分の夢を実現したいとがんばっている女性を紹介していたが、そんなにうまい具合に自分の「人生の意味」を発見できるのだろうか。
若い人と話していると、仕事を選ぶ基準で何か違うなと思うことがある。自分の本当にやりたいことは何かを見極めてから、職業選択すると言うのだ。
それは違うのではないか。職業というのはたいていたまたまである。たまたま、自分の目の前にあった仕事が、長く続けることになり、それを天職とみなしたくなるようなものだ。戦後まもなく活躍した映画人はほとんどそうだ。カメラマンの宮川一夫も特撮の円谷英二も、あのクロサワだってそうだ。
仕事は回転ずしの廻るコンベアに乗せられた寿司のようなもの。たまたま、自分の前に来た皿を取り上げるだけであって、自分が本当に食べたいものは何かを決めてそれが来るまで待つというわけではない。それをやっているといつまでたっても寿司を食べられない。
この若い人が就職で悩むことと、私の自己実現のための意味を問うことと、どこか似ている。本当に、自分の人生というのはこれだと見極められるものなのか。あるのだろうか。見極めたところで人生に引導を渡すことができるのだろうか。
木彫のある仏師のエピソードをライターの永江朗が書いていたのが、気になった。これから仏を刻もうと素材である木に向かうと、何もない木材の中に「仏」が見える。イデアとしての「仏」がある、とその仏師は言うのだ。だから、彼は木を彫って仏を作るというより、木のなかにある仏を取り出すという作業になるのだと語ったそうだ。
私という人間の中に、自己というイデアがあるのだろうか。そして、その自己を取り出せば人生足れりとなるのだろうか。自己実現したことになるのだろうか。
退職する以前は、仕事ということ、子育てということで追われていて、じぶんの人生の意味などということを考える暇もなければ、考えなくても前に歩けた。
定年後はすこし様子が違う。仕事が自分の人生の全面的な「張り」にはならない。子供も育った。では、何が後半生を生きるエンジンになるのか。
若い人の仕事を選ぶことについてはアドバイスできても、自分の後半の行き方(あえて、こう書きたい)がなかなか分からない。
不惑とは40で、四十代に入れば人生に迷わないと古人が言った、が私の体験から考えるとむしろ40を越えればおおいに惑うと言いたいほどだ。あえて言えば、40過ぎから「迷惑」としたいほどだ。
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