備忘録、昭和33年
大伴昌司の人生を見つめるために、自分の個人体験を重ねてみたい。
大切な年は昭和34年だが、その前年から押さえていく。
この年、私は10歳。小学5年だ。フラフープが大流行した。学校から帰るとみなフラフープに興じていた。私はなかなか買ってもらえず、友達のを借りてやる程度だったからなかなか上達せず、30回転ぐらいですぐ輪っかが抜けて落ちるのであった。友達の中にはほとんど永久的に回すのがいた。やりすぎて体調をこわすのもいた。月曜朝の朝礼で校長先生が内臓を痛めるから適度にしなさいと、注意した。
2月からテレビで月光仮面が始まった。少年たちの間ではたちまち人気が沸騰。家にはテレビがなかったので、うどん屋とか金持ちの家とかをぐるぐる回って見せてもらっていた。「すいませーん、テレビ見せてください」とか「××ちゃーん、テレビ、見せて―」とか声をかけて汚い足で他所の客間に上がりこんでいたのだ。当時、テレビは高級品で客間に鎮座していた。100万台を突破したばかりで、世帯普及率は10㌫を越えたばかり。10軒に1軒しかテレビがなかった。オープニングで月光仮面がスーパーカブというバイクに乗って颯爽と現われる。疾走する姿に憧れた。
野球が注目された。長島がプロデビューしプロ野球人気が起きたのだ。だが当時はセリーグだけの人気でなくパリーグも注目されていた。水原巨人監督と同じくらい鶴岡南海監督も人気があった。その南海に長島と立教同期の杉浦が投手で入団、私は下手投げのこの投手が大好きだった。パリーグ会長中沢不二雄が子供といっしょに野球盤に興じる広告写真は、少年の心を捉えた。このゲームでは磁石を利用して、ボールが直球だけでなくカーブも出せるのだ。私は欲しくてたまらなかったが、父はぜったいに駄目だとしか言わなかった。
日活からユージローがデビューした。「嵐を呼ぶ男」がわが町にある国際劇場にかかったが、小学生は見ることができなかった。だから主題歌だけを覚えた。
♪おいらはドラマ、やくざなドラマ、おいらが怒れば嵐を呼ぶさ、喧嘩がわりにドラムをたたきゃ、恋のうさも吹っ飛ぶぜ
ドラマーとドラムの活用の意味が分からず、映像が思い浮かばなかった。恋のうさという言葉の意味が一番分からなかった。恋のうわさではないかと思ったのだ。恋の憂さと知ったのは20歳を越えてからだ。
母の財布から10円くすねて粉末ジュースの素を買った。見つかって猛烈に叱られたが、あのとき「なめた」ブドウジュースの甘さが忘れられない。
♪ワタナベの ジュースの素です、もう一杯。とエノケンの真似をしてだみ声で歌った。
女性自身[光文社]週刊明星[集英社] 週刊大衆[双葉社]週刊実話[実話出版] 週刊ベースボール[ベースボールマガジン社]など、次々に週刊誌が創刊された。これもテレビの影響だろう。速報性が重視されると、月刊誌ではカバーできなくなってきたのだ。
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