大浦天主堂から浦上四番崩れまで
朝いちばんに大浦天主堂へ行ってきた。昼間は修学旅行生で賑わう石畳の道も人影はなく工事用のトラックがエンジン音を響かせるだけ。
門扉は閉まっていたものの、美しいファサードは拝見できた。この丘に立つと、鶴の港と言われた美しい長崎港が一望できる。今はみやげ物店が軒を連ねていささか鬱陶しいが、往時は南山手に天主堂がすくっと建っていた、そして港に出入りする外国船から金色に輝く十字架がよく見えたはずだ。
キリシタン禁教令がまだ解かれていなかった幕末、ここを3人の百姓が訪れた。その中に婦人もいた。浦上からやって来た彼らはフランス寺が建ったと聞いて、見物にみせかけて偵察に来たのだ。「もしや、パーパの遣わしたお寺ではないか」
彼らの中に言い伝えがあった。隠れて信仰を保て、きっと何代か経た世にローマ教皇の派遣するパードレがやってくる、その時こそ自分らの信仰を公にできるんのだと。「あれに見ゆるはパーパの船よ。丸にやの字の帆がみえる」
丸にやの字とはマリアのこと。数代にわたって姿を消していた潜伏キリシタンたちにとって待ちに待ったできごとを確認する行動であった。
見学していた彼らは堂内を見て回るうちに、ここが教会であることを確信する。メンバーの婦人はたまらずにこの教会の関係者に問う。「マリア様の、御像はどこ?」
まるで実況中継しているかのように日本キリシタン発見の事柄が現在に伝わっているのは、当時の司祭であったプチジャン神父が克明に記録をつけていたからだ。この情報はただちにローマをはじめ全世界に流れた。200年近い弾圧に耐えて信仰を守った者がい
て、それを発見したというビッグニュースであった。これは西欧のキリスト教徒から見ると奇跡に他ならない。
そして浦上のキリシタンたちに大いなる喜びが宿った、めでたしめでたしとはならなかったのだ。迫害はまだ続いたのである。
新しく出来た明治政府は江戸幕府の禁教令をいまだ受け継いでいた。浦上に1000人以上のキリシタンがいるということを知って処罰を下すのだ。全員流罪となる。これが「浦上四番崩れ」という殉教である。信徒たちはこの流罪を「旅」と呼んだ。
その浦上キリシタンの末裔一人が、純心大学学長の片岡千鶴子シスターである。昨日、恵みの丘にあるキャンパスでひさしぶりにお会いした。先生も70近くなられたと思うが美しいのだ。まったく化粧っ気のないお顔がりんと輝いておられる。見るたびに美しさに惚れ惚れとする。この方の祖先たちが信仰を守り弾圧を耐え抜いたのだと思うと、名状しがたい感動を覚えるのであった。
片岡先生から祖先の「旅」の話を聞いたことがある。旅は名古屋以西40箇所に登った。たしか先生の身内は津和野であったと記憶する。私はそこを訪ねたが、山中の厳しい住まいであったことにあらためて浦上信徒の信仰の強さに感動した。
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