いじめとは何だ
北海道滝川市の小学校の教室で昨年9月、6年生の女児(当時12歳)が首をつり死亡した問題で、その子が残した遺書をめぐって、朝からワイドショーは騒がしい。
いじめという文言が少女の遺書から発見できなかったので、いじめという事実があったことを特定できないとその町の教育委員会が発表したのだ。コメンテーターたちは憤慨している。この教育委員会の対応に怒りの言葉が語られるのは理解できるが、一方でガス抜きされているような気がしてならない。
教育委員会の対応にも頭にくるが、問題がすりかえられて、級友らの加害性、担任、教務主任、校長らの責任がうやむやにされてゆくことに苛立ちを覚える。
いじめということに立ち止まって考えてみたい。12年前に、名古屋で大河内清輝君がいじめを苦にして自殺した。たしかそれを契機にいじめということが社会問題になったと思う。子をもつ親として、もし自分の子にそれが起きたらと、私も不安を抱いた。
職場でもいじめの話題がときどきあがった。転勤の多い仕事の私らは、家族が犠牲になりがちだった。実際、いじめにあって登校拒否になった子弟は少なくない。明るく話しをしているアナウンサーの家庭が、苦難に満ちているという事例はけっして少なくなかった。
私自身、その頃東京と広島の間を往復し、子供らもそれにともなって転校をくりかえしていた。中学生の息子と小学生の娘にどういうことがあったか私は知らない。
こどもらは見知らぬ土地で彼らなりの苦労をしていたということを、後になって知る。
昔(と言いたい)、軍隊があった頃、内務班と呼ばれる軍隊生活で古参の兵隊が新兵を“可愛がる”ということは常時であった。野間宏の『真空地帯』にはやりきれない実態が書かれてある。
戦後もこの体質が引き継がれた。昭和30年代だったと記憶するが、大学の山岳部で“シゴキ”ということが行われ、死者が出て社会問題となる。
大河内君の死から10数年たって、いじめは中学生から小学生へと広がっている。けっして無くなってはいない。しかも身体的な暴力ではなく、シカト、無視、ネグレクトという精神的暴力へと変わってきている。より巧妙化し陰湿化しているのだ。
日本にはもう一つ伝統があった。「村八分」という見せしめのいじめだ。
このいじめ、シゴキは過去のこと、子供の世界のこと,と埒外に置けるだろうか。
実は、大人の社会はそれらにみちみちているのではないか。これらの事件で怒って見せているキャスターたちやそのスタッフの中で、今もそういうことが行われている実体がないと言い切れるのだろうか。
そういう噂を折に触れて聞く。その匂いが漂うからこそ、ワイドショーのなかで怒ってみせることに胡散臭さを感じるのだ。
私のこどもらに厳しい状況があったということを実感として確認したのは、今年になってからだ。
ディレクターになった長男が春に「こころの時代」を1本制作したのだ。名古屋で勤務する彼が選んだ主題は亡くなった大河内君の父君のこころを描いたものであった。
その番組は大河内君の死を父君はどう受け止め、その後どうやって生きてきたかを語っていた。それを見て、私は息子が苦しんでいたこと、苦しかった胸のうちを、初めて知った気がした。
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