3人の放談

新刊書『文学全集を立ち上げる』
これまでにない世界文学全集を作ろうじゃないかと、三賢者が集まった。
作家、丸谷才一、評論家、三浦雅士、鹿島茂、の面々だ。丸谷以外は私と同年輩の団塊世代。そうか、60近くなると、いわゆる教養としての名作は一応網羅して読んでいるのだなと、ドストエフスキーすらまともに読んでいない私は、ひがむ。
300ページに及ぶこの書物、思ったほどたいしたことはなかった。帰りの電車1時間半ですべて読めた。思ったとおり、知識をひけらかしていい気な鼎談であった。選択する書、分量も当て推量で、これといった根拠があるとは思えない。まあ、床屋政談の文学版か。
だが、最後の最後が、大江に言及していて面白かった。丸谷が大江文学を私小説と断じたのだ。昭和初年に平野謙が当時の文学を私小説とプロレタリア文学と芸術派の3派鼎立と解釈したのに見立てて、丸谷は現代日本文学を三分類したのだ。
《モダニズムの代表が村上春樹、プロレタリア文学の代表が井上ひさし、そして私小説の代表が大江健三郎・・・》
これには一本とられた。秀逸な分析だ。モダニズムを筒井康隆としたいというちょっとした異論はあるものの他の二つに関してはおおいに教えられた。
大江の位置づけについて、丸谷はさらにこう説明する。
《(ヨーロッパの芸術家小説)の筋を日本へもってきて、矮小化してしまったのが日本の私小説なわけだね。(略)ヨーロッパ風の芸術家小説の私小説における矮小化ということに気がついて、その矮小化を正そう、逆の方向にもっと大きなものにしようとして、神話的な方法とか、構造主義とか、土俗的文化人類学的な方法を取り入れたのが大江健三郎だった。》
ちょっと感心したね。さすが丸谷先生。
以前、大江さんが「最近、私小説を書いておられるのですねと言われるんだ。ちょっと違うのだけれどね」と私にもらしたことがある。たしかに、大江さんとおぼしき主人公、光さんをモデルにした青年、ゆかり夫人らしいオユウサン、と実在する人物が、大江文学のなかで動き回る。本当らしい挿話が次々と繰り出される。だが、そこに記されたことは事実ではなく、大江健三郎という稀有な想像力から紡ぎだされたオハナシだけなのだ。オハナシを作ることは嘘をつくこと。大江さんの想像力は独特で、本当のような嘘に自分自身が翻弄される。70近い老人だが、大江さんの魂は子供のようだと言いたい。
丸谷先生の卓見に促されて鹿島先生もいいことを言っている。
《大江さんの「世界文学」の摂取の仕方はかなりサブカル的なんですね。つまり、大人として読まずに、子供として、いいかえれば自己愛的に「世界文学」を読んだ。しかし、そんなことをしたのは、世界広しといえども、大江健三郎しかいなかった。》
魂というのは梅干の種のようだという比喩がある。果肉の奥に魂があるというのだが、大江健三郎という人には、老賢者風外観の奥深くに傷つきやすい幼子のような魂がある、と私には思えてならない。
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