いざ、京都へ
雨がまだ降っている。秋雨前線が居座っている。金曜日に亡くなったYさんの通夜には出席できなかった。本日が葬儀だ。香典を同僚に託す。いささか早い死であったから、今日の雨も涙雨か。
今日から、京都で映像メディア論の講義を4日にわたって行う。秋の集中講義だ。
春の講義は、毎月最終週に2日ずつ演習を重ねるに対して、秋は座講が中心だ。
昨年は、映像は戦争をどう描いてきたかと言う主題をめぐって考察した。今年はもっとゆるやかに、映像とはどんな表現を得意とするかを、事例を挙げて考えてゆくスタイルにしようかなと構想している。あ、そうだ。8月に発売した『ドキュメンタリーを作る』を、学生たちに宣伝しておこうっと。
劇映画の映像について一言。
「サウンドオブミュージック」の冒頭のシーン。アルプスの山を越えて、広い牧場で歌うジュリー・アンドリュース。これは見事な空撮だ。おそらくヘリコではなくセスナで撮影したと思われるが、雄大で華やかでオープニングを彩る、秀逸なカットで、私も好きだ。
先年、放映された「グラジエーター」。ラッセル・クロー主演のローマ帝国戦士の数奇な運命を描いた作品で、いくつかの賞を得たものがある。私はこの映画が好きではない。
映像がコンピュータグラフィックス(CG)で作られすぎていて、物語に没入する以前にリアリティでしらけてしまうのだ。「ベンハー」などは特撮で行われていたが、近年はすべてCGで処理される。この処理の仕方に違和を感じてしまうのだ。
「グラジエーター」でもっとも気になるカット。
ローマのコロッセウムで主人公がライオンと戦う場面だ。このライオンとの戦いがCGでつながれていることに落胆したわけではない。この競技場を説明するカットが許せないのだ。
コロッセオをまず正面から撮る。その次だ。コロッセオの空中高いところにカメラの目があって、コロッセオをゆっくり横切ってゆくのだ。たしかに建物の大きさ構造が分かるカットだ。説明するには最適かもしれない。だが、これでは物語の設定においてリアリティをなくす。このカットはあきらかに空撮の映像だ。ヘリコでコロッセオを横切ってゆくカットだ。
ローマ時代にヘリコがあって、そんな視点で物語が物語られていたか。それはない。
だから、しらけるのだ。
では、先の「サウンドオブミュージック」はどうか。同時代としては空撮があった。リーフェンシュタールの「意志の勝利」ではオープニングからえんえんとアルプスの空撮だ。だから時代認識においてずれはない。だが、それだけで「サウンド」のカメラアイを許容するわけではない。
「サウンド」のカメラアイは主人公を空の高みからズズーっと近寄って、主人公を見つめる、神様の視点になっていて、それは観客としても同意できるのだ。「グラジエーター」は明らかにローマ時代にヘリコが飛んで撮影しましたといわんばかりの、アナクロ映像なのだ。
空撮だからいけないというのではない。ドラマは虚構なのだから、そんな野暮はいわない。「グラジエーター」は明らかに映像として説明的でだれた映像なのだ。カットに勢い、輝きがない。
同じ空撮でも、「魔女の宅急便」の高層ビルの屋上をさらに上空から見るカットは、アニメだが高いリアリティを感じるのだ。
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