芭蕉伝説破壊
嵐山光三郎の『悪党芭蕉』はめっぽう面白い。これまで閑寂の人・求道の人と思われてきた芭蕉がまったく違うひととなりをみせてくれるのだ。
なにより、蕉門といわれた芭蕉一門の実態のすごさよ。大阪の之道と酒堂が喧嘩するは、膳所の曲翠は家老を殺して自刃するは、京の凡兆は後年芭蕉から離反しかつ牢に入れられるは、大垣のパトロンであった木因や荷けいは芭蕉に反旗をひるがえすは、第1の実力者の其角とて花街で危険な遊びにうつつぬかすは、可愛がった杜国とて流刑となる。ざっと見わたしただけでもこれほど悪行狼藉がある。
おまけに芭蕉は流罪の杜国をこっそり連れ出して西国を旅している。これが「笈の小文」の元となる旅ではあるが、お上に見つかれば芭蕉とて罪人となるものだ。弟子も弟子なら、師も師だ。この御仁が風雅のまことを口にし、不易流行を説くのだから恐れ入る。だが、私はこういう芭蕉を咎めているのではない。むしろ、芭蕉の生臭さを知ってうれしいほどだ。
まあ、とにかく弟子たちの間の愛憎というか嫉妬というか、この座に渦巻くエネルギーは半端なものではない。
「京にはろくな俳人はいない」と手紙に悪口を残す芭蕉。才人の酒堂がやや生意気を言ったら言下に叱り飛ばした芭蕉。俳聖と呼ばれる芭蕉翁も相当意地の悪い人物のようだ。
だが、それは不思議でないだろう。我々の知っている、あの高浜虚子とか水原秋桜子とかの人物を思い浮かべれば納得できる。虚子などは自分で「大悪人虚子」と開き直っているのだから。
後世の私らは、先人が残した記述だけで人格を見てしまいがちだが、文章にするときはきれい事になる、自分を美化する、というのは世の習い性ではないか。嵐山光三郎は書かれたことだけで判断せず、その事実のウラを意地悪く取りながら見抜いてゆくのだ。この本は切り捨て御免の痛快さがある。
さて、この本で一つ愉快な句を知った。若い友人に教えてやりたい。
その句とは――。
うらやましおもひ切る時猫の恋 越人
この句を嵐山はこう解釈している。《猫は人目も忍ばぬほど激しく恋するのに、思い切るとなると、ひどくあっさりしている。その見極めかたがうらやましい。人間のように、いつまでもうじうじとしていない猫をうらやんでおり》、この越人の句を芭蕉はよく出来たと去来に伝えている。越人の句を芭蕉が絶賛したというのだ。
江戸時代でも、恋に悩んでうじうじしていた人間がいたことも分るし、それに共感する芭蕉自身そういうこころねが理解できるものをもっていたということ。俄然、芭蕉が21世紀の我々の側に近づいて来るとは思わないかい。
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