冷たい戦争の時代の終わりに3
1989年10月8日、私はウィーンを経由してモスクワに入った。
翌日、大江さんが日本からやってきた。世界作家会議に出席するためである。これに合わせて私もモスクワに入って、ソ連の知識人との対話を撮影しようと考えていた。10月初めというのにモスクワは寒かった。
11日、C・アイトマートフが議長を務める作家会議で、大江さんは「権力と作家」という演題でスピーチした。米欧から来た作家とソ連の作家の間で、権力に対する考えが明らかに違っている。この当時、ソ連をめぐる情況は大きく動いていた。ペレストロイカでソ連に雪解けのムードが出てきたと伝えらていたが、実体はどうもそうではなさそうであった。
SF作家アルカージ・ストルガツキーとの対談がこの旅の主目的である。13日に対談する予定になっており、その調整をノーボスチ通信のニコライに依頼してある。SF作家は長く危険人物と見られていて、自由な発言を長く止められてきた。当局は自由な言論を統制してきたのだが、ここにきてやや軟化の兆しも見え初めてもいた。
今回、われわれの申し出に応じてくれたのは、ノーボスチ通信が当局に根回してくれたからだ。
当局と掛け合っていたニコライがやってきて、対談の調整がうまくいったと告げる。私たちがアパートまで作家を迎えに行って、ノーボスチ通信社のオフィスまで連れてきて対談するならOKということだ。
13日朝10時、冷たい雨の中、ストルガツキーの高層アパートの前に大江さんと私は立った。モスクワ大学のあるレーニンの丘のさらに先にある大きな団地である。
やがて、入り口にストルガツキーが現われた。でっぷり太っていていい体格をしている。あいさつの握手を交わした。大きな手である。
SF小説は弟のボリスと二人で書いてきた。兄アルカージは日本文学研究者で、中世文学にも造詣が深いはずだ。ところが無口だ。不機嫌である。
車に乗り込んだで都心に向かう。やがて氏は口を開いた。「通訳はいるのだろうか」
用意してあると答えるとにこっと笑った。どうやら日本語を話すのは苦手でそれを気にしていたらしい。はあーっと大きく息をはく。安心したようだ。息が酒臭い。
ストルガツキー兄弟はタルコフスキー「ストーカー」の原作「路傍のピクニック」や「収容所惑星」「願望機」「世界終末十億年前」など、多くの作品をものしている。兄のアルカージは戦時中極東研究所に勤務し日本語に精通し、デビュー作は第5福竜丸事件を題材にした『ビキニの涙』である。弟のボリスは天文学者だ。このコンビで“東側”SF小説の第一人者として活躍してきた。
大江さんはタルコフスキーの「ストーカー」の原作者ということもさりながら、東欧圏のSFのレベルの高さに長く注目してきた。チャペック以来のソ連SFの愛読者でもある。
そしてアルカージの最初の著書が「ビキニの涙」ということに関心をもっていて、ぜひヒロシマのことについてどう考えているか、知りたいと願った。
(この項つづく)
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