あらゆるテレビはイマである
イタリアのベネディクト・クローチェの言葉。「あらゆる歴史は現代史である」
蒼然とした死んだ歴史を知るのでなく、私たちは現代を生きる手がかりとしての歴史を見つめるべきだという意味であろう。
前に少し触れたテレビのイマ・ココ問題を再び取り上げてみたい。
テレビ草創期に活躍した人たちによって、「テレビよ、お前はただの現在にすぎない」と喝破された。爾来、テレビはこの言葉に呪縛されたかのように、イマ・ココにしつこくこだわってきた。企画会議でもっともよく飛び交う言葉は「この主題(もしくは素材)はなぜイマやるのか」だ。
だが考えてもごらん。テレビは放送開始されて“もう”五十年も経った。いくら何でも一つ覚えでこのテーゼに寄りかかりすぎてはいまいか。
その結果、イマ――当面話題になっていることばかりに話が集中し、かつそのイマをいかに面白可笑しく見せるかということに、テレビマンは腐心する。
テレビが提供するイマは、たくさんの事実S(事実の複数形、つまりFACTS、事実群という言い方ができるかなあ)の中にあっての1つだけを特権化しているに過ぎないのではないか。ひょっとすると、訳知りの人から見たら噴飯ものかもしれないのだ。
イマ・ココにこだわるテレビは、「裸の王様」ではないか。
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