大和、帯解・・・
さきほどタケ先生の待合室で、三島由紀夫の邸宅の写真集をぱらぱら見ていた。有名なロココの庭園、バルコンに続いて書斎があった。書架の本をのぞくと、半分は知っている書名なので安心した。
そして、最後の原稿の大写しがあった。言い遅れたが撮影は篠山紀信である。
原稿は『豊饒の海・天人五衰』の最後の場面だ。奈良帯解の円照寺の日盛りの庭だ。
小説では月修寺となっているその場――庭は夏の日盛りの陽光あびて、しんとしている。・・・と、三島の端正な字が原稿用紙を埋めていた。これを見たとき、ある情景をまざまざと思い出したのだ。
おそらく三島が死んで2年後の昭和47年晩秋だったと思う。私は女ともだちと一緒に「豊饒の海」ゆかりの円照寺を訪ねた。そこは交通の不便な桜井線の帯解(おびとけ)にあった。
臨済宗円照寺は格式の高い寺で、斑鳩の「中宮寺」、奈良は佐保路の「法華寺」と共に大和三門跡の1つで、代々皇室関係が門跡となり、別名山村御殿とも称されたほどの寺だ。出入りは厳重で、私たちが訪れたときも門前払いをくらった。寒気のつよい日だった。
仕方がないから内部の拝観はあきらめ、寺の周囲を2時間ほどめぐった。日没が近づいたので駅へもどった。円照寺がわが心のシーンではない。
その駅の情景が忘れられないのだ。脳裏に焼きついている。夕暮れを古語で「かわたれ」と言うが、その言葉の響きのような美しい夕焼と暗闇があった。陽があたったところはあかあかと家並町並みが見えるが、それ以外は漆黒の闇が押し寄せていた。
上りのホームは駅舎から線路を越えて対岸にある。その通路を渡りながら線路の彼方を見ると、夕焼が今消えてゆくところであった。最後の光を浴びて浮かび上がった帯解の家並は昔ながらの古い家々がひっそりとシルエットになっていた。
この情景は、それから10年ほど経って山口百恵が歌った「いい日旅立ち」を聞いたとき甦った。♪ああ、日本のどこかに、私を待ってる、人がいる
30年、映像の仕事をしてきた。その間、心に残った映像や、見て感動した実景が、私の中で区別なくある。それは、なぜ心の乾板に焼きついたのか、自省しながら、取り出して行きたい。1001本目の記事にこめる思いだ。
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旧街道沿いの帯解の町