大江―木村―アラーキー
番組制作会社の社長が、「木村伊兵衛の13万コマ」を見て番組の最後に語ったアラーキーの言葉が心に残ったと誉めてくれた。
その言葉とは、懐かしさがない芸術作品などありえないということだ。
木村伊兵衛は昭和それも戦後まもない貧しい日本を撮りつづけた。豊かな今日から見れば、ある懐かしさをまとった写真である。
だが、アラーキーが言った懐かしさは、そういう具体的な過去のものへの「ノスタルジー」という意味としての懐かしさを指しているわけではない。
すべてのことの始まりへの懐かしさである。
大江さんの美しい作品「懐かしい年への手紙」がある。懐かしさは大江文学の中期における大切なワードだ。
以前、大江さんの書いた詩「卒業」について書いたことがある。
《 卒業
今日で終わりということ 不思議な気がするね 不思議さ 風が吹いてる コブシがゆれてる 卒業だ さよなら
いつかふたりが会ったら ぼくだとわかるかな きみだと
この詩について大江さんは、遠くない日、自分がひとり死んでゆく日、光さんに別れを
告げている情景だと記している。死んでゆくことを恐れたり悲しんだりするより、不思議な気がするだろうと大江さんは、光さんに呼びかける。そして、この世から去って卒業してしまうと、〈こことは違う場所〉に、魂はゆくのではないだろうかと大江さんは想像する。
そこへ、後から光さんも魂となってやってくる。
「そこに魂として、自分がいる。それから、やがて光も、魂としてそこにやってきている。
しかし、僕も光も、この世界の肉体からはすっかり解きはなたれているのだから、たとえば、風と風が木立の中で行きあったとして、相手のことをそれと認める、ということはないはずと感じられるように、僕の詩のしめくくりの、次の一節のとおりじゃないだろうか、と思うのですね
いつかふたりが会ったら
ぼくだとわかるかな きみだと」
風のような大江さんの魂と光さんの魂が早春の林の中で、交差する。互いに見知らぬ同士のようにすれ違いながら。一方、ふと懐かしい思いにもとらわれる…。》
魂は肉体を離れ、遠いところへ旅たつ。そこでは以前の記憶もすべてなくなる。
記憶をなくした魂が、今生で縁があった魂と出会うこともあるかもしれない。
そのとき、お互い初対面のようによそよそしく交叉しながら、ふと懐かしさを覚える。
その懐かしさが、木村伊兵衛の写真のあちこちに散りばめられているのだろう。それを天才アラーキーも気がついたのではないだろうか。
さて、『懐かしい年への手紙』という題を思うといつも私は錯誤に陥る。『懐かしい年からの手紙』と言いたくなるのだ。懐かしい年というのは、過去にじっと止まっているとは思えないのだ。その年から、現在に向かって呼びかけることもある、動き出すこともある、と思えてならない。
この記事を書いた後、重大なことに気づいた。この記事で1000件となったのだ。このブログをのぞいてくれた人は52459。
当初の目標だった千件のブログ。昨年の2月1日から創めて本日達成できた。
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