宮崎父子
本日の「読売新聞」で、精神科医の斎藤環が「『ゲド戦記』を見て」という文章を書いている。
宮崎駿の長男の吾朗が監督した「ゲド戦記」を見て、斎藤は〈必ずしも映像的スペクタクルに富んではいない原作を、かくもすっきりジブリ風の娯楽作品に仕上げた力量を、まずは評価したい。〉と批評した。この「まず」という言葉に斎藤の胸にイチモツがあることを感じた。
斎藤はこの映画の中に感動をするのでなく、宮崎父子の父子相伝のメタ物語に感動すると、この批評の後半で書いている。そうして、駿がもっている「業の深さ」を吾朗はこれから積み上げることができるだろうかと、結んでいる。つまり、きれいには出来たが、親父ほどの「影」というか深みをもった作品を、これから出来るのかと、やんわり批判しているのだ。
このところ、父の仕事を自分もやるという若者の姿を見ることが多い。何のことはない。私の場合もそうだ。息子は2年前からドキュメンタリーのディレクターを始めている。だから、この宮崎父子のエピソードは他人事ではなく感じられる。
よく息子さんが仕事を継いでくれて嬉しいでしょうと言われるが、本心は複雑だ。まあそういう形で私の仕事を認めてくれたという意味では悪くない。だが、それは一部でしかない。同じジャンルで表現ということに携わるとすれば、むしろライバルの作り手という存在のほうが大きいのだ。息子が作る番組が評判をとって、私の作品が話題にならないような状況を恐れる。
ハードな表現を、私よりハラを据えて息子がやるようになったら、きっと悔しいと思うだろう。これは息子というより、若い制作者にいつも感じる嫉妬だ。テーマで負けていてもナレーションではまだ俺のほうが出来ているとか、取材の厚みでは叶わないが編集の肌理の細かさではまだましだとか、若手の作品に対して何だかんだといつも自己弁護するのは常だから。
この斎藤の評を読んだとき、私は宮崎駿の反応を想像した。自分の流儀や作法を受け継いでくれたことは、一瞬嬉しいと思うかもしれないが、すぐその後で別の思いが宮崎の中からこみあげてくるのではないだろうか。俺の真似などするな、俺の作品が模倣されるほどのものがあるか、その表現はけっして潔いものでなく、人には打ち明けない「影」をもっているのだから。もっと、俺とは離れて仕事をしろと。俺はまだまだ負けない、と。
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