批評ということ
あらためて『文学部唯野教授』(筒井康隆著)を読んでいる。『批評理論入門』を読み出して再び気になったのだ。いずれも文学批評について記している。
文学作品がどのような形式から成り立ち、いかなる効果を達成しているかを調べる方法が文学批評の方法だ。その関心はアリストテレスの頃からあったが、小説にかぎって言うと批評の対象として体系的に考えられるようになったのは、わずか100年前のことと知って驚く。その後、印象批評、ジャンル批評、脱構築批評、精神分析批評、フェミニズム批評、ポストコロニアル批評とさまざまな形式が登場して、小説を磨いてきた。
テレビの番組批評がこれに比べるとずっと立ち遅れていることはいうまでもない。いまだに印象批評だ。『唯野教授』でも、批評のもっともプリミティブなものは「印象批評」だと言っている。
番組などで反響が上がるのは、感動的な事象が多い。たいてい印象批評だ。
障害をもった人物がけなげに生きていることにつよく感動したとか、娘に対する母の無償の愛情に打たれたとか、印象の域を出ない批評である。感想と言っていいかもしれない。
これが悲しいことに視聴者レベルだけでなく、批評家においてもそうであるし、ときには同業の制作者ですら、同程度の見識しかもたないことがある。
この印象批評が困ったところは、自分が受けた印象は他の人もきっと感じるものだと、サイレントマジョリティ代表のポジションにすぐ立ちたがることだ。
『唯野教授』に印象批評のバリエーションで規範批評というのが出てくる。この部分はもっとこうすべきであったとかもっとつよく表すべきであったとかという類の批評だ。
テレビドキュメンタリーにおいて、この規範批評こそもっともナンセンスだと思うが、主張する当人は自覚していない。
ドキュメントはあった事実を一つの形にまとめあげるものだ。だから、あった事実を「もっとつよく」するなどというのはありえない。その事実の切り口が違うとか、他の取材を合わせて表現すべきとか、技法で語られるならともかく、事実をもっと強くすべきという主張には呆れる。
以前、週刊誌のテレビ時評を女性作家が担当していた頃、終始印象批評で、技法や番組の構成構造について無知だった。あまりではないかと、制作者の側から声があがったとき、「視聴者は制作の裏側を知らなくても、番組を見るだけで判断すればいい」と言い放った。彼女は批評の方法論的自覚は皆無であったのだ。
一般視聴者はともかく時評と掲げているコラムを書く御仁がそういうことを言うのかと唖然とした。
印象批評の限界は作品の優劣を決めるケースを考えるとすぐ分かる。印象批評は主観的でずさんな尺度にしかならず、いわゆる有意な差を説明できないのだ。
だが深刻なことは、制作現場で番組を見定める立場の者が印象批評しかできないということだ。
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