広島にいた外国人
今、NHKアーカイブスで、爆撃機ローンサムレディ号の乗組員の数奇な運命を描いた名作を紹介していた。
昭和20年7月に、沖縄から飛び立って呉港へ爆撃に来たローンサム号は、撃墜され、その乗員の一部が広島に連行され、収容所に入れられる。
そして、8月6日、同国人が投下した原爆によって傷つき死んでいったのである。
その事実をアメリカに残された遺族は30年経っても知らされていなかった。――
番組では、全米に散らばる乗員の遺族を広島の記者が訪ね歩くが、ほとんどが貧しい白人たちであることが、境遇から察しられた。乗員の一人として大学を卒業するような身分はいなかった。帰りを待ち続ける遺族たちも、都会の片隅や田舎の農場でつつましく暮らしていた。
B29に乗って原爆や焼夷弾を投下するアメリカ人なんてどれほど酷いものかと、かつては怨んだりもしたが、この番組を見ると、いずこの国も戦争で苦しむのは庶民とその子弟ばかりと言いたくなる。
先日放送した「ぼくはヒロシマを知らなかった」でも紹介したが、平和記念公園には韓国人犠牲者慰霊碑がある。当時、広島にいた朝鮮半島出身者で原爆で倒れた約2万を追悼するものだ。この碑は亀を台座にして出来ているが、その亀の頭は故国である朝鮮半島を向いている。望郷は深い。原爆に遭うことだけでもすさまじいことなのに、まして異国で経験することの恐怖は想像を絶する。
そして、広島の文理大学や高等師範にはアジアの各地から特別留学生が来ていた。その彼らも大半が被爆し、異郷の地に倒れたのだ。マレーからはるばるやってきたサイド・オマールはまだ19歳であった。原爆に直撃された後京都まで逃げ延びて、そこで死んだ。
彼は優秀で、日本の和歌を詠むほどの知性ももっていた。元気な頃に作った望郷の歌。
母を遠くはなれてあれば南にながるる星のかなしかりけり
母は、サイドが死んだことなど知らない。知ったのはずっと後になってのことだった。
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