重藤文夫博士
1990年の6月、出来たばかりの中国自動車道を通って、私は大江さんと東広島へ向かっていた。そこに眠る広島日赤病院院長、重藤文夫の墓に詣でるためだ。
重藤文夫は九州大学医学部を卒業し、地元の日赤病院に赴任してきたのは、1945年、昭和20年7月末のことだった。
8月6日の朝、自宅の東広島を出て広島駅まで来た。市電に乗り換えようとしていたとき原爆に直撃された。
自ら傷つきながら地獄となった町を越えて病院にたどり着き、そこでおよそ2ヶ月にわたって重藤は被爆者たちの治療にあたった。
1963年6月、大江光が誕生した。その子は脳に欠陥をもっていた。放置すれば死ぬかもしれない、手術をすれば障害が残るかもしれない。父である大江健三郎は迷った。どう決断していいか分からないまま、8月大江さんは広島へ原水禁運動の取材に出かけた。そのとき書かれたのが『ヒロシマ・ノート』である。
広島で大江さんは重藤博士と会った。原爆症について大江さんはインタビューした。その中で重藤は大江さんにあるエピソードを話した。
原爆が落とされて2ヶ月経った頃。不眠不休で患者の治療をする重藤のまわりをまつわりついて質問する青年医師がいた。「こんなことがあっていいのだろうか。人間って何だろう」と質問を重藤にぶつけてくるのだ。相談にのろうと思っても、次々に患者が押し寄せてくる。重藤はその青年医師に郊外へ行って、緑でも見てきたらどうかと、一時避難することを勧めた。それから2時間ほどしてその医師は首をくくっていた。
と言う話を重藤は大江さんにした。重藤はこのエピソードを苦い悔いをもって語ったつもりであったが、大江さんはそうは受け取っていない。重藤の逸話を聞きながら、青年医師こそ大江自身だと思ったのだ。だからこそ青年医師に重藤が答えた言葉が、大江さんの胸に突き刺さる――
「目の前に苦しんでいる人がいる。治療するよりほかないじゃないか」
これは新生児を手術するべきか否かと迷っている若い作家の胸に響いたのだ。
「目の前に苦しんでいる人がいる。治療するよりほかないじゃないか」
往生要集に出てくるような地獄のなかで、過労で倒れそうになりながら治療にあたる医師や看護婦らは、ともすればこの世の終わりと絶望したとしても不思議でない。精神に異常を来たすこともあったかもしれない。だが、暗い気持ちをもちながらも、人間が起こした災厄にけっして屈服しない人々もいたのだ。大江さんは『ヒロシマ・ノート』にそう記した。
その後、東京に戻った大江さんは新生児に手術を施し、共生の道をたどってゆく。その契機を重藤は与えてくれたのだ。その彼の墓参に出かけたとき、私も同行した。
重藤博士は昔西条といわれた町の旧家の出身で、墓はその父祖の地にある。重藤未亡人が迎えてくれ裏山の墓地まで案内してくれた。道すがら、夫人から重藤医師は若い頃は暗かったが、原爆以後は磊落な性格に変わったと、聞かされた。大江さんは重藤先生はまさに広島的な人だったのだとあらためて知る。
本日、8月6日。毎年この日は、平和公園の式典中継を見て、テレビに向かって黙祷を捧げ、『ヒロシマ・ノート』を読む。
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