大磯花火大会
夕方、花火が鳴っている。本日、大磯の浜辺で7時から予定通り花火大会が開かれる。
暑い日であった。やっと梅雨が明けたようだ。花火大会にふさわしい。この大磯では町民の娯楽として花火を打ち上げるが、私の故郷はお盆の行事として行われる。夜空には花火、水面には灯篭流しという風景になるのだ。
おもしろうて やがて悲しき 花火かな
華やかに空を彩る花火だが、どこか悲しさがあるのは、死者の影が漂っている気がする。ディズニーランドの花火とは違うのだ。
本棚の整理をしていて、思い出の1冊を久しぶりに手にした。『手よ語れ~ろうあ被爆者の証言~』(長崎県ろうあ福祉協会編、1986年、北人社)
長崎に勤務していた頃に、私も手伝って出版された本だ。
昭和60年当時、ろうあで被爆した人のことは誰も考慮する人はいなかった。というより、原爆という未曾有の災厄の前に障害という苦難はかき消されていた。被爆と聴覚障害という二重の苦難をもつ少数者は不可視の存在だった。ここに光をあてようとする数名のボランティアがいた。全国手話通訳問題研究会・長崎支部の面々である。
私はローカル番組の制作を通じてボランティアの彼女らを知った。男性メンバーはいなかった。20代から40代の女性ばかりで、驚くべき情熱家ばかりだった。
半年ほどかけてろうあ被爆者から被爆体験を聞き出し、それを半年かけて文章化する作業となった。どういうことを質問して、何を聞き出すか、について私が手話通訳のメンバーたちにレクチャーした。さらに文章にまとめるときも、長崎原爆の私の情報や知識を提供するなど協力した。
手話通訳のメンバーから、このろうあ被爆者の記録をどこか出版化してくれるところはないかと、私は相談を受けた。
長崎へ転勤する前に付き合っていた編集者がちょうど独立したばかりだった。三須正隆。おそらく私より6,7歳年長であったろう。フリーの編集者として、私のゲルニカの番組を子供向け雑誌で書いてくれたことから、付き合いが始まっていた。当時、スペイン戦争に私は熱中していて研究仲間の法政大学、川成洋を三須に紹介するなど、個人的にも親しくした。3人は気が合った。
東北大学で哲学を学んだという三須はなかなかの論客だった。一本気でやや融通のきかない三須はいつも不遇だった。懐はさびしいと見受けた。貧しいがいつか自分の出版社をもつのだと、夢を語っていた。長崎へ私が転勤してからも文通はしていた。
そして、昭和61年、三須はとうとう自分の会社を立ち上げた。東北出身を意識して北人社と名づけた。その出版社の最初の1冊だったか、2冊目だったか忘れてしまったが、とにかく北人社の開店披露の1冊として、この『手よ語れ』が発売されたのだ。
この本が出た夏に、私は東京へもどった。
福祉番組のディレクターとして、私は全国を飛び回ることになり、三須と会う機会も減った。むしろ私が仲介した三須―川成の友情は年も近いせいもあって深まっていた。
年が明けて、1月だったと思う。まだ寒い季節だった。早朝、川成から三須が死んだと連絡が入った。自殺らしいというのだ。遺体が収容された築地署に今から行くというので、私も成増から駆けつけた。
警察には夫人と川成の二人だけがいた。
3人で、遺体と面会した。青ざめた三須の額に一筋血が流れていた。
三須正隆のことは、これまで誰にも語ってきたことがなかった。三須の人生を思うとあまりに悲しいからだ。
だが、遠花火を聞いているうち、三須のことを書き残したい、こういう仕事をした人物がいたということを言いたくなった。
残された三須の二人の男児も、今では三十近くなっているのだろう。
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