被爆のマリア
タイトルに惹かれて田口ランディの小説「被爆のマリア」を買った。ウェブの小説で名を馳せた人だから、“保守的な”私としてはこれまで敬遠して読んだことのない作家だった。ところが、この題名の小説を読んでみると、いたって普通の文学であった。
物語は――
主人公は、ビデオ店で働く若い女性だ。何でも頼まれると断れないタイプで、お金も貸してしまうし、身体も許してしまう。そんな自分が嫌のだが、嫌われたくないという思いのほうが勝ってそうなってしまうのだ。同僚の男性がそんな彼女を案じている。彼は、主人公のことをアダルト・チルドレンではないかと考え、幼い頃に何か傷ついたことはないかと問う。幼少期どころか、現在でも彼女は父の暴力に苛まれていた。やがてそれはエスカレートし、母と共に父から逃亡するが、やがて捕まり、母はその暴力の中、死んでしまう。
そして、彼女は被爆のマリアに祈るのだった。長崎に原爆が落ちたときに破壊され、首だけになった焼け焦げの「被爆のマリア」に。原爆というとてつもなく大きな悪意に対して無抵抗で被爆していった無原罪のマリア・・・。
このマリア像は見覚えがある。それどころではない。私の心に深く刻印されている。20年前、長崎三ツ山の純心女子大の学長室で目にして以来、脳裏から去ったことがないのだ。
長崎浦上。江戸時代以来、キリシタンたちが潜伏してきた地だ。江戸末期から明治初年にかけて、キリシタンであることが発覚して何千人という村人が流罪となった。浦上4番崩れと世にいう事件だ。刑を終えて村人がもどったのは明治6年(1873)のことだ。半数近い者が流罪先で亡くなっていた。生きて帰村した1883人は荒れた浦上の地を復興させてゆく。そして、力を合わせて念願の天主堂建設を始める。20年ほどかけて大正3年、東洋一の煉瓦造のロマネスク様式の大聖堂が完成させた。祭壇にはイタリアから送られた無原罪の聖母の像が奉られた。美しい像であった。それから30年経った。
1945年8月、浦上天主堂の上空500mで原子爆弾が炸裂した。一帯は猛火に包まれ地獄と化し、浦上に住んでいた12,000人の信者のうち、8,500人がその日に亡くなった。 天主堂には、被昇天の祝日の準備のため信者24名と司祭2名がいたが、全員が即死、天主堂は深夜まで燃え続けた。浦上の丘は廃墟となった。その年の10月、一人の復員兵が浦上の廃墟を訪れる。 長崎の出身で、北海道の修道院に帰院する途上の野口神父であった。 師が深い祈りをを捧げている時、瓦礫の中から、真っ黒に焼け焦げた顔が、深い悲しみをたたえて自分をみつめていることに気付く。 天主堂の祭壇に奉られていた聖母マリアのお顔であった。野口師は、このマリア像を自室に安置して毎日祈っていたが、「このような聖なる物を私していることに後悔をおぼえ」、原爆三十周年の年、片岡弥吉氏の手を通じて浦上天主堂に返上した。
片岡弥吉氏は浦上キリシタンの末裔で、キリシタン研究の第一人者だった学者だ。二人の娘はシスターとなり、現在純心女子大の学長と教授となっている。弥吉氏の死後、そのマリア像は娘に託された。その片岡千鶴子シスターから、20年前に「被爆のマリア」を見せていただいたのだ。お顔をみたとき感動した。美しい面が焼け焦げ、眼は失われて眼窩はむき出しとなっているが、慈愛と呼びたいような微光が放射していた。
このマリア像をめぐる物語を、私は最初に著した本のなかで紹介することになる。その本とは、「キミちゃんの手紙」(未来社)で、兵器工場に動員されていた女子挺身隊の被爆記録である。この本には、私の長崎勤務で学んだことをすべて書き込んだ。私にとって長崎とは、原子爆弾の被害とキリシタンの栄光であった。
かつてのマリア像 来られた記念に下のランキングをクリックして行ってくれませんか
人気blogランキング