あかい痣の記憶
かなかなが鳴いている。今日一日雨がなかったものの、依然涼しく夕方になってもいっこうに気温は上がらない。もみじ山は車や街頭音もないので、ひぐらしがそのまま聞こえてくる。
今年はチェルノブイリ事故が起きて20年になる。事故のあった6月頃にはテレビは最近の現地の様子を伝える番組を次々に報じていた。その一本をさきほど見た。「チェルノブイリ・20年目の歌声」。
事故のあったウクライナの町に住んでいた子供たちが成長して、あの悲劇を歌声と舞踊劇で伝えているという話だった。その劇団の名前はチェリボナ・カリ―ナ。ロシア語で“病を癒す赤い木の実”という意味だ。
その団員の一人をカメラは追う。20歳になろうとする彼女は、事故当時母の胎内にあった。母は今も後悔している。爆発が起きたと聞いてアパートの屋上に上がって、その爆発炎上する光景を見ていたのだ。そのときに大量の放射線を浴びて、わが子に大きな影響を与えたと彼女は認識していて、自分を責めていた。実際、その子の体調は不安定である。
だが、若かった母親を責められない。原発の危険性など何も知らされていない段階で、何かが起きたと野次馬気分になるのはやむを得なかったのだから。
私には左足の腿に大きなあかい痣(あざ)がある。立って手を下ろしたあたりにそれはあって拳ほどの大きさである。
この痣が出来たことについて、母から聞いたことがある。
産み月に入って、母は実家の大津へ帰っていた。冬のある夜、滋賀県庁が火事になった。大きな火事だったので大騒ぎとなり、家人や近所の連中はみな火事場見物に出かけた。母も見たいと思ったが、妊婦は見たらあかんと祖母から注意された。だが、好奇心を抑えることができず、路地にまで走り出た。見上げると大きな炎が上がっていて、火の手は実家まで来るかもしれないと思うほどの勢いだったそうだ。妙に興奮していたと、母は思い返す。
火事を見て体のどこかに触ると、生まれてくる子供に痣か黒子が出来るという話を、母は不意に思い出した。試したくなった。だが、もし本当にそうなると、目立つ部位ではまずいだろうと考え、差し障りのない場所として選んだのが左腿だった。固く握りしめた拳をそっと当てたという。
私が誕生して、左の小さな足にくっきり赤い痣があるのを見つけたとき、母は驚いたが誰にも言わなかった。成長するにつれ、私の痣は大きくなっていった。
この話を成長して聞かされたとき、私は本気で母をなじった。「ひどいことをするなあ。ヒトの体を使って試すなんて」と言うと、母は申し訳なさそうにうつむいていた。
それからさらに5年ほど経って、なぜそんなことをしたのかと聞くと、小泉八雲の小説にそんな話があったからだと、母は小さな声で言った。
しかし、八雲の中にそんな作品はない。ただ死者が臨終に生まれ変わりを約して、自分と同じ場所に痣をもつ子を探せという、似たような話はあった。だが、身篭っていた子供に現れるということなどどこにも書かれていない。が、おそらく、この物語が話の出所だろう。
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