定年再出発 |
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ハンマ
笠原和夫の『破滅の美学』を読んでいて、尊大なある人物の顔を思い浮かべた。その人の名と同じハンマと言う語が演劇にはあるとその本には書かれてある。 ハンマとは間が半分ということで、そろわぬこと、まぬけという意味だと、笠原は辞書から引用する。 吹き出しそうなる。ハンマという言葉には間抜けという意味があるんですってねとあの御仁にささやいたらきっと癇癪を起こすだろう。そればかりか、マネージャーや付き人らそこらじゅうに当り散らすにちがいない。 このハンマという言葉を笠原は娯楽映画の巨匠マキノ雅弘から教えられた。それはそれなりに含蓄のある話だ。 マキノはキチっと決まった芝居ばかりでは情感が出ないから、ときにはハンマが要ると言った。でないとドラマが単調になるというのだ。芝居の世界ではハンマとはまぬけという第Ⅰ義だけでなく微妙な用い方をする。 その芝居のハンマとは関係ない。ハンマの意味がまぬけということが私には面白かったのだ。 私がディレクターとして修行を始めたのは、こどもの音楽番組からだ。そこで大きな顔をして仕切っていたのが音楽監督のハンマ親父である。親父は戦後焼け跡ジャズの頃ちょっとならしたピアニストだったそうだ。「みんなのうた」などラジオの音楽番組を長年担当してきた。内幸町時代から放送局に出入りしていて、ちょっとしたボスだった。 私と出会ったときには大長老だと思っていたが、考えると、今の私ぐらいの年齢だろう。生きていれば70半ばになるか。 音楽番組を担当しろと命ぜられたとき私は面食らった。まったく音楽の素養がないのだ。譜面など読めるはずもない。流行歌やビートルズ、フォークソングは好きだったが、いわゆるクラシックはまったく聞かなかった。その私が音楽番組を制作するのだ。 歌であればまだしも、楽器の演奏だけの曲の場合困った。譜面が読めないから、どこを演奏しているか把握できない。カメラのカットを割ることができないし、ABCの3つのカメラに指示できないのだ。 カラオケを録音する際も、テイクした後の評価ができない。今の演奏がよかったかどうか、悪いならどこが悪いか指摘するのがディレクターの役目だが、何回聞いてもみな同じに聞こえる。よほどのことがないかぎり、録音はすべてOKを出した。 私が素人だと分かると、ハンマ親父は意地悪を始めた。演奏のとき少し間違えて(音符一つか二つ、四分休符程度)指揮をする。 そうやっておいて、私の反応をうかがう。私がOKと言うと、やおらブースにやってきて、「ええ?今のがオーケーだって。そりゃまずいよ、××の部分がうまくいっていないよ」というのだ。 この類の意地悪をたくさん食らった。 当時、私はトーシローだからそういうことをされても仕方がないと半分諦めていたが、代わりにいっしょに仕事をしていた放送作家のヨータローさんが憤慨してくれた。「ハンマさん、それならそうで最初に指摘しなさいよ」「ズージャの人はすぐそういうことをする」 ヨータローさんは私より5歳ほど年長で、同じ福井県出身だということで私を可愛がってくれた。色をなしてヨータローさんが怒ると、ハンマ親父は慌てて「まあまあ、そういわずに」と腰を低くするのだった。強いものには弱い人だった。勝手な想像だが、旧軍の下士官級にはこういうのがたくさんいて学徒兵たちをいじめたのだろうなあ。 ヨータローさんは学生の頃から業界に出入りし、年は若いがフリーの放送作家として活躍していた。野球の好きなスポーツマンだったが、柄にない可愛い詩や詞を書いた。一匹狼のプライドが高く、局員らの中から侮蔑した言葉が出ると烈火のごとく怒り反撃をした。下請けだからといってけっして卑屈にならなかった。鼻っ柱の強いわりに情にもろくすぐ目を潤ませるのだった。彼は若狭小浜の出身で、草深い田舎だと嘆きながらよく故郷の海のことを話した。独身だった私は泊まりに行くことが多かった。人形劇の美術をやっていた奥さんはヨータローさんにまったく干渉しないから、夜中の2時3時に帰って酒を呑んで騒いでも何も言わなかった。その頃上等の酒だったシーバスリーガルをばんばん振舞ってくれた。 その後、私は結婚して川崎に住むようになり子供が生まれるとヨータローさんと遊ぶことも少なくなった。やがて長崎へ私は転勤となった。正月の年賀状だけの付き合いとなった。風の噂で、ヨータローさんがガンになり手術をしたと聞いた。 上京したときヨータローさんと会ったら体が半分くらいになっていた。ダンディだった彼が坊主頭になっておりハンチングをかぶっていた。大丈夫かと聞くと「たいしたことないよ。ガンなんて今では治る病気だから」と相変わらず強気だったが、眼差しは穏やかになっていた。 私はドキュメンタリー畑を歩くようになりヨータローさんとは疎遠となった。作曲家のヒロコーイチさんと共同で事務所を始めた。だが手術以来仕事もセーブして花作りに精を出しているという噂を聞くようになった。 それから数年後ヨータローさんは死んだ。四十を越えたばかりだった。 最後を見ていたヒロさんによれば、ヨータローさんは死にたくないと語っていたそうだ。床から起き上がれなくなったとき、鏡で窓の外を写しだして風景をだまってヨータローさんは見ていた。仕事の話はいっさいしなくなっていたと、ヒロさんは私に話してくれた。 病院から一時帰宅してくると、この記事にコメントがあった。初めて知る事実だった。が、なんとなくヨータローさんのあの頃の気持ちが分かるような気がしてきた。彼がなった病に今自分がなってみて、彼の最期の日々の「静かさ」がせつない。 来られた記念に下のランキングをクリックして行ってくれませんか
by yamato-y
| 2006-07-10 12:08
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