イマ・ココの非特権化
イタリアの哲学者ベネデット・クローチェは語っている。「あらゆる真の歴史は現代史である」
古色蒼然とした歴史を知ることが意味あることでなく、現在を生きる私たちの関心から歴史を見つめるべきだという意味であろう。
テレビはかつて萩元晴彦によって、「テレビよおまえはただの今に過ぎない」と喝破された。たしかにテレビは映画や文学と比べて今にこだわってジャンルを発達させた。
日本人がそれを実感したのは浅間山荘銃撃事件の生中継からだった。以来、テレビは執拗に〈イマ・ココ〉にこだわった。
テレビの企画会議でもっとも飛び交う言葉は、「このテーマ〈素材〉はなぜ今やるのか」「今取り上げる意味は何か」である。
ジャーナリズムの語源にはイマが含まれていることは承知しているが、それでも過剰だ。馬鹿の一つ覚えのように、なぜかイマばかりを繰り返し厭きもせず問う。
テレビの本放送が始まって50年以上経った。いくら何でもこのテーゼにテレビはこだわり過ぎてはいまいか。何が何でもイマココに傾きすぎてはいないだろうか。
その結果、当面(イマ)課題話題になっていることばかりに話は集中してゆく。かつ同じ話を手をかえ品を変えて見せようとする。見せ方(演出)に凝ってゆく。秋田女児殺人事件を見よ。だが内容の物語は平板なことが多い。番組がプロット化しているのだ。
テレビが提供するイマは多様な現実塊・たくさんの事実群の一つに過ぎないにもかかわらず偏重される。イマが特権化し偉そうに振舞ってはいるが、「裸の王様」状態ではないか。
歴史哲学の研究家上村忠男の意見に惹かれる。上村は歴史を、歴史の外におかれたものとの関係で考えてゆこうとしている。歴史の他化とか歴史の他者性とか呼んでいる考え方だ。
テレビの他化ということができないか。イマ・ココから離れた(外側にある)コトに目を向けてゆくという進みゆきを、テレビの状況に設定できないだろうか。イマ・ココの非特権化を目指すのだ。
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