清貧に生きた人②
インパール作戦では、これに参加した日本の兵員の8割が戦死した。太平洋戦争の中でも屈指の「無謀で愚劣で残忍かつ無責任な作戦」(中野孝次)だった。
この戦いの責任者は第15軍司令官牟田口廉也中将。
そもそもこの作戦はビルマの山間部で、イギリス軍と闘って、要衝インパールを奪取しようということで立てられた。そこはビルマの山中にあってジャングルが行く手をはばむ険しい地だ。この作戦は当初から無理だということが言われていたので、他の師団らは早々に撤退していたが、牟田口はこれに固執した。しかも日本にいる東条首相・陸相・参謀総長もこれを支持したので、現地で止めることは誰もできないまま作戦は突入して行く。
闘ったイギリス軍のアントニー・ジェームスの証言「この作戦は日本がその歴史上味わった陸戦における最大の敗北」その理由はイギリス軍が作戦を変えたことに気づかず、日本軍が猪突猛進していったことによる。
実は、この作戦はイギリス軍によって見破られていて、戦法は変えられていたのだ。にもかかわらず、牟田口や部下の愚かな参謀らは当初決めた通りに兵を移動させてゆく。
この作戦はスピードが重要と、20日分の糧食と弾薬しか兵員に与えず出発させた。参謀たちの計算によれば50日間でうまく目的を達成できれば、この壮挙が四月二十九日の天長節(つまり天皇誕生日)に間に合わせることができると考えたのだ。牟田口はこういう甘言を弄して東京の東条らに取り入ったのである。何という理由で兵隊たちを追いたてたものだ。
この作戦に中野孝次の長兄が参加し戦病死した。この兄の名前が入った日章旗が50年経て、中野の前に現われた。1994年のことである。どうやら闘った相手のイギリス軍の兵士が拾ったものが届けられたのだ。兄の名前は中野幸太郎。だが、この名前に該当する兵が全国で15人ほどいる。でもその中で、中野の兄がもっとも可能性が高くなり、ついに中野はそれを兄の遺品として受け取る。この「事件」を契機にインパール作戦の愚劣を描いた作品が、『五十年目の日章旗』である。
ビルマの山地はすさまじいジャングルだった。そこで食糧を失くし弾薬も尽きて尚前進させられた。一人二人と兵隊がマラリアや赤痢で倒れていった。その細く長く続く道にしゃれこうべが増えてゆく。後にこの道は「白骨街道」と呼ばれる。中野の兄もその一つだった。
そして、許しがたいのが、この作戦を立てて指示した参謀たちである。命令を出している牟田口らは現地に行かず、後方の楽な場所にいて兵隊たちに撤退するなと命令を出し続けていた。
中野は記述している。
《この史上稀に見る愚劣きわまる作戦を立案し遂行した将軍牟田口廉也は、その責任をとることも感じることもなく、無事東京に帰って陸軍士官学校校長に栄転して敗戦を迎えている。そして戦後もなお、死までの十七年間自己の過失と責任の重大さを認めることなく、黒を白といいくるめて作戦の功を主張しつづけたのである。人間としてもこれはもっとも陋劣な将軍であった。》
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