キトラのための歴史のおさらい
壬申の乱は日本古代最大の内乱として知られる。
668年に中大兄皇子が即位して天智天皇となる。当時唐が新羅と結んで朝鮮半島に進出していて、その矛先が日本に向くことを天智は恐れた。それまでの飛鳥から近江へ都を移すのだった。
次に彼が心を砕いたのは後継者問題である。一応、跡継ぎに皇太弟、大海人皇子がいた。この時期、皇位継承は兄弟継承も珍しくなかった。
一方、天智の子大友皇子がいた。母は身分の高くない地方豪族の娘であったが、聡明で学問をよくし天智もこれを愛した。まだハタチそこそこの若者だった。長ずるにますます才能を発揮しはじめる。この息子を愛する天智はかねてから約束はしていたものの、天皇位を弟に譲るのが惜しくなったと考えるのは不思議ではないだろう。
そうこうするうち、天智は病で倒れた。その枕元に大海人皇子を呼んで皇位のことを伝えたところ、即座に大海人皇子は断った。天智の計略を警戒したのである。かつて大化の改新で蘇我入鹿を暗殺し有間皇子を葬ってきた、稀代の策略家天智天皇。
大海人はその日のうちに髪を下ろし仏門に入った。その足で隠遁するとして吉野を目指すのであった。後に持統天皇になる妻もいっしょである。兄の本心を知る大海人にとって一刻の猶予もなかった。用心深く、粛清の火種を用心深く消していったのだ。
この日から2ヵ月後、671年12月天智天皇は亡くなった。大化の改新以来30年、政治の中心にあった天智の波乱に満ちた一生が閉じられたのだ。
天智天皇没後の政情不安となる。そして672年6月、大海人皇子はわずかな従者と共に吉野を出て東国に向けて出立する。壬申の乱が勃発したのだ。 大友軍は全国各地の軍兵の動員をに手間取りもたもたした。緒戦において、近江朝がわは遅れをとっていたのだ。
大海人軍は伊賀を経て伊勢まで急行し 月末には美濃国不破に本営を置くに至る。大海人皇子は東国の大兵力を結集し7月2日に総攻撃を号令した。彼は2正面作戦をとる。第二隊は大和方面に進出して大伴吹負らの軍と合流し、南大和の箸陵の戦いで大友方を撃破した。第一隊は大海人皇子の長子である 高市皇子率いる近江に進撃し、大友軍を打ち破りながら進軍し7月22日大友軍の最後の防衛ラインである瀬田川に至る。この日は大友皇子自ら出陣し、瀬田川を挟んで両軍最後の決戦が始まる。瀬田川を奪取された大友軍は総崩れとなり、大友もわずかに身を持って逃れたが翌日山前(さき)で自害した。
壬申の乱に勝利し、実力で皇位に就いた大海人皇子(天武天皇)の権力は強大なものとなり、天皇の神格化・律令体制の整備とが急速に進んだ。天皇と名乗ったのは天武が最初となる。
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