一番電車が走った日
広島の己斐から宮島に向けてJR(旧国鉄)と広島電鉄が平行して走行する。線路がまっすぐなので、列車が並んで走っているとまるで競争しているようだ。
戦時中、広電の運転手も車掌も女子が勤務することがあった。男は召集でとられて女子の労働に頼らなくてはならない状況にあったのだ。女学校を卒業したばかりの16、7歳の女の子が乗務していた。
原爆が落ちたとき市内を走っていて被災した電車もたくさんあった。乗員も客も犠牲になった。爆発のあと火の手があがって市内のほぼ全域が燃えた。文字通り、原子野は焼け野原となった。
すさまじい被害であったにもかかわらず、わずか3日後に電車が走った。この一番電車に乗務した車掌は徴用された若い女性であった。身内を失い友を失くした娘車掌がけなげにも任務ついて、原子野に、生きる証としての汽笛を鳴らしたのだ。
この実際にあった出来事をもとにして、私はアニメーションのドラマを作ったことがある。題して、「広島に一番電車が走った日」。私にとって唯一のアニメ作品である。
この題材をドキュメンタリーで表現するよりアニメというフィクションで表現したいと、私は考えた。というのは、失意の心を奮い起こして任務につく少女。その彼女が発車合図の汽笛を鳴らす場面はどうしても、若い世代(つまり子供たち)に見せたかった。子供たちと年がそれほどかわらない女性が人間として原爆に負けないという姿を伝えたいと私は願った。彼らに人気のあるアニメーションがその表現にふさわしいのではないかと思った。
このドラマを制作するにあたり、当時の関係者に女子の勤務の実態などいろいろ取材した。
戦時中だということでひもじかったことや朝の起床がきつかったことなど、苦労話を聞いたのだが、一つ心に残った話がある。
己斐の直線区間のことだ。ここを女子運転手が運転することが時々あった。脇に国鉄の機関車が並ぶと張りきったそうだ。大きな機関車、大人の運転手と張り合って娘運転手は競争したのだ。チンチン電車でもその気になれば60キロぐらいは出た。トップスピードで国鉄の前を走ったのだ。
「うちゃあ、あの競争が大好きじゃったけ。胸がすーっとした」と楽しそうに女子運転手は語った。その人はもう六十を過ぎていた。孫があの頃の私と同じ年になりましたよ、と語った。
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