原爆ドームのほとりで
原爆ドームのそばのベンチでこれを書いている。「世界はヒロシマを覚えているか」という番組を始めるにあたり、このドームに佇立する大江健三郎から始めた。18年前のちょうど今頃の季節だった。
当時東西冷戦が終結しそうな世界情勢だった。ソ連の不安定さは核戦争を誤っておかしかねなかった。いわゆる累卵の危機である。そういう時代だからこそ、東西の知識人オピニオンリーダーに大江がじかに核問題、ヒロシマ体験について聞いてみようという趣旨で、この番組は企画が立ち上げられたのである。
まもなくソ連からサハロフ博士が来日した。彼は水爆の父といわれた人物だが後に核兵器の非人間性にまっこうから反対を表明するようになった、ソ連の反体制活動家として世界中から注目されていた。彼の在日日程の中に広島へ行く予定があったので、私は大江―サハロフ対談をもくろんだ。「世界はヒロシマを覚えているか」の番組のゲストにふさわしい人物と考えたのだ。対談はこの原爆ドームが一望できるビルの一室で行われた。
――てっきりサハロフは広島の原爆投下に対して反対を表明すると私は予想していた。それは見事に裏切られ博士はこの爆弾によって戦争が終わったのだから原爆投下もやむをえなかったと述べたのだ。面食らった。ソ連の反体制活動家がヒロシマを否定するとは。
これに対し大江は当然つよく反発した。いかなる理由があろうとも核兵器のもつ非人間性を看過することはできない、それによって戦争終結したなどという正当化は認めがたいとサハロフの態度を批判した。
サハロフは頑固だった。けっして譲らなかった。広島で起きた悲惨には同情するが、終結には投下という方法しかなかったと、繰り返した。水爆の父といわれ、その後反核運動に身を投じた博士からそのような意見を聞くとは思っていなかったので、私などはショックを受ける。
だが、この出来事は大江のファイトを刺戟する。この対談結果は、広島の意味を世界にさらに問いたいという大江の意欲をつよくしていく結果となったのだ。
そして事態は急転した。この対談から一月足らずでサハロフが急死する。偶然だが、私のチームは彼の最後の映像を撮っていた。緊急特集を作ってみてほしいという要請が来た。放送はわずか4日後だという、超殺人的スケジュールだが私は応じた。こういう重大な企画は無理をしてでも国民に問うべきだと、覚悟した。そして、その番組は「サハロフの遺言」と題されて、国際政治の不可解さをつよく印象づけたのである。
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