言葉は力
言葉は力です、と新聞社のキャンペーンが空港の掲示板に踊っていた。
なるほど一つのイメージキャンペーンとしては有効かもしれないが、果たして、今世の中の人はそう思っているだろうか。
言葉は予想以上に嘘をつく、裏切る、届かない、と実感することが多いのではないだろうか。
今朝、秋田の児童殺人事件で近所の女性が逮捕されたということを、ワイドショーでも大きく取り上げ、新聞も各紙こぞって女性の周辺を報じている。
全国紙、ブロック紙ともに論調は同じ。というか、同じ物語を説いていてもはやこの事件はあるストーリーが出来上がっている気配だ。こういうことで使われる言葉というのは常套化していて嘘くさい。
また記者が悪いわけではないが、政治家のいう言葉もうさんくさい。話している言葉をまともに取り扱うと、その後裏切られることがまことに多い。むしろ言葉を語っている本人の画像が真実を言っていることが多い。ブッシュ大統領がイラク問題などで窮地に追い込まれて言い訳するときなど、語っている言葉よりおどおどする目のほうが事実を伝えるということがある。
とはいえ、ウェブの世界ではまだ圧倒的に言葉が大きな存在だ。言葉で表現され、その言葉を味わうというのが今のインターネットの世界だ。でもこのメディアは遠くない将来、きっと映像が幅をきかせることになろう。というのは一枚の画は1万の言葉にまさる(大伴昌司)のだから。
ただ映像は情報量が多いのでその圧縮伝送などでもたついてはいるが、それは技術的に克服されるから阻害要因にはならない。むしろ、映像の弱点としての「抽象性」「観念性」をどうやって付加していくかが課題となるはずだ。
例えば映像検索するにしてもそれは言葉を使用して実行するしかないのだろうか。映像の因子で映像を探すということはできないのだろうか。
ここでまた元へ戻ってくる。映像もまた言葉だということだ。映像の情報性のほとんどはそこで語られる会話であったり写される文字であったりするので、画像そのものの情報性は低いという、あの言説に回帰するということだ。
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