力石の死と黒テントのあたし
2つはまったく関係ない。が、今の私の心に大きく占めているから無理やり書いてみる。
昭和45年、少年マガジン2月15日号が発売された直後だ。わたしは4月から社会人となるので故郷の実家にもどっていた。大学の友人から電話がはいった。「おい、力石が死んだぞ」
てっきり、誰か知り合いが内ゲバにでもあって亡くなったのかと思った。そんな名前の友人がいたかなあ。
「ジョーのライバル、力石徹だよ。あの力石が死んだのだ」と言って友人は嗚咽をもらした。「マジかよ。長距離電話することかよ」と事の次第を知って驚くより呆れたが、私も次第にその出来事が気になりはじめた。そしてその号を一読し大きな喪失感をもった。
一月後、3月24日講談社の講堂で800人を集めて、寺山修司らの手によって力石の告別式が行われた。寺山の「力石徹よ」という詩が捧げられた。
力石徹よ 君はあしたのジョーのあしたであり
橋の下の少年たちのあしたであり 片目のトレーナー丹下段平のあしたであり
全ての読者のあしたであった・・・・・
その月末、私は入社式のため上京する。31日、神田から世田谷へ移動するタクシーの車中で「よど号」がハイジャックされたニュースを聞いた。ひとつの時代が音をたてて終わろうとする気がした。
――そして黒テント。
むせるような草いきれの中に、その大テントは禍々しく建っていた。そこで演じられた芝居はそれまで見たこともない種類のものだった。「阿部定の犬」。
スポットライトがついて、男が現れ口上を述べた。「東京市日本晴れ区安全剃刀町オペラ通り。夢から覚めてご町内へようこそ」
そこへ、阿部定と思しき“あたし”が現われ、クルト・ワイルの三文オペラのメロディにのせて歌う。
♪ 桃色ひもを ふた重に巻いて 首をしぼりゃ それっきり
別れ話も 嘘の涙も 夢のような明日も
・・・
♪ どこかの街で ひとり微笑む 幸せそうな 女を見たら
それはあたし 名前は「あたし」 ひとりぼっちのふたり連れ
この芝居のラストにラジオが臨時ニュースを告げる。
「聖上ご容態肺炎のご症状昨朝より一投のご増進、・・・×日午後×分、心臓麻痺にて崩御あらせらる。」昭和が終わったということを告げて芝居は終局に向かったのだ。
たまげた。まだ当時昭和が終わるという実感がない時代だったから。みうちに熱いものを感じた。
この芝居で熱演した斎藤晴彦、新井純が目にやきつき、友カズオミこと福原一臣が輝いていた。昭和52年、梅雨間近な頃だった。
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