脳出血で倒れた
今から11年前になる。平成7年の6月だった。直前まで私は広島で勤務していた。
6月5日に、東京へ転勤するという内示があった。それから異動するまでの1週間毎晩送別会が続いた。
12日に東京の職場に出て新しい部に配属になった。その週末広島へ前から頼まれていた講演会を一つ果たすため一泊二日で往復した。体は疲れきっていた。明けて月曜、6月19日。
夜、大磯の自宅で脳出血を発症した。すぐ平塚市民病院に入院した。その夜の当直医がたまたま脳外科の宮崎先生であったことが、私に幸いした。集中治療室3日いた。4日目に大江さんが見舞いに来てくれたが、私はぞんざいな対応をしたらしい。というのは、私は覚えていないのだ。5日目に、意識が混濁した。幻想を見た。7月6日までたえず吐き気がし点滴につながれていた。苦しかった。エンヤの歌声だけが慰めだった。
7月7日、七夕から好転した。吐き気が消えた。
7月19日、退院した。だが、1週1度の通院は義務付けられた。
8月6日も9日も、原爆の日は自宅でむかえた。被爆から50年という重大な日であったが。14日、父の一周忌があったが故郷へは帰れなかった。大磯の山の上で私は病をやしなう他なかった。
9月1日、出社した。
初秋の山を下りて娑婆に出む
そろそろと出社する日やいわし雲
出社したものの居場所はなく、半身麻痺も残り体調も万全でなかった。一日一万歩をじぶんに課すがなかなか達成できなかった。鬱々とした日が続く。
10月3日、義父の墓参で高尾へ行った。
11月17日、ニューヨークへ行くこととなった。
雁の行く北米の空果てしなく
11月20日(月)国際エミー賞を受賞する。夢のような心地だった。日本へ報告するためヒルトンホテルの自室に戻る廊下で、足が地に着いていないと、さすがに自分でも分かった。
12月14日、雑誌「世界」の創刊50年記念パーティが帝国ホテルで開かれる。安江良介社長、大江健三郎氏、のスピーチ。二人にエミー賞の報告をした。
こうして激動の1995年は、最後になって穏やかに閉じることができた。
だが、病を得た6月のあのとき、私は本当に絶望したのだった。

国際エミー賞のトロフィのレプリカだ。本体は広島放送局にある。
来られた記念に下のランキングをクリックして行ってくれませんか
人気blogランキング