くえないユーモア
「楢山節考」と「うなぎ」でカンヌ国際映画祭の最高賞パルムドールを2度獲得した映画監督今村昌平が死去した。79歳。
今村は、早稲田大学を1951年に卒業後、松竹大船撮影所に入り、小津安二郎監督の助監督を務めた。後の作風からするとあの巨匠の下にいたとは思えない,がこれは事実だ。54年に日活に移り、川島雄三監督の下、助監督として手腕を発揮。社会派の「にあんちゃん」(59年)を製作した。この作品は同時代として私も見た。ラジオでも感動したことを映画でさらに倍加された記憶が鮮明だ。
今村はちょっと見はそこらのオッサンという風貌で、どこにあの人間の愛憎を描くような資質があるかと疑いたくなるようなひととなりだ。68年の「神々の深き欲望」、79年の「復讐するは我にあり」という両作品にはどすんと心に当身をくらった。
今夕、机を並べる仲間が今平について語ったこんな文章があるよと、見せてくれた。長男で映画監督の天願大介が書いた「親父の横顔」というエッセーだ。冒頭から私にはしみる。《子供の頃、親父が外で何をしているのか、実のところよくわからなかった。ほとんど家にいないのである。》撮影で現地に行ったきり、ドキュメンタリーだと海外へ行って帰って来ない、と書いている。私も息子からみればこんなふうだろうなあ。
今村の二男で、今村プロダクション社長、竑介は死去にあたって「好きなことやったんで大往生と言えるのでは。十分満足いく人生だと思う」というコメントを出したが、今村とていつも好きなことをやれたわけではない。むしろ人には言えない苦しい時代がそれなりに続いてもいたのだ。映画が撮れない苦難の時代があったのだ。企画が破れたときの、今平の様子を天願はこんな風に書いている。
《企画が立ち上がり、今度こそ撮れそうになって家族の期待もふくらむ。食卓も何となく明るくなる。しかしある晩、突然企画が潰れてしまったと聞かされる。親父は黙って煙草を吸い、目を真っ赤にしたお袋が何かに対して怒っている。そんなことが何度も何度も、本当に何度もあったのだ。だが親父はユーモアを忘れることがなかった。下らない冗談を言い、強がってハッハと笑った。》
あの今平でも何度も企画が潰れたのだ、ということを知ると胸がつぶれる。豪放磊落に見えて、こと映画に関して緻密繊細だった今村昌平。
冥福を祈る。合掌。
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