時代の傾きの中で
林房雄という人がいた。『大東亜戦争肯定論』というのを書いている。この論は、中央公論1963年9月号から65年6月号にかけて連載され、発表された。
林は、その使用がタブー視されてきた『大東亜戦争』という名称を戦後始めて復活させて使っている。中心の主張とは、日本の近代史はアジアを植民地化していた欧米諸国に対する戦いである「東亜百年戦争」の歴史であり、1941年12月8日に始まる大東亜戦争はその全過程の帰結だった、というものである。そして、その過程における原動力は経済的要因ではなくナショナリズムであり、それの集中点は「武装した天皇制」だった、というのだ。勇ましい超国家主義である。
――この人はかつて東大の新人会へ中野重治をさそった人でもある。プロレタリア運動の先頭に立って社会改革を目指していたのだ。当時の仲間に、中野以外にもぬやまひろし、窪川鶴次郎、佐多稲子、らがいた。ところが1930年 に治安維持法違反で検挙される。豊多摩刑務所に入ることになる。 そして2年後、 転向して出所した。それから真逆の道を歩む。
『作家として』という文章で転向を内外に表明する。日中戦争への作家の従軍にも積極的に参加してゆく。戦後はそういう活動に対して、公職追放という処分にあう。
一方、中野や佐多らも転向したと自らを責めながらも、戦後日本の民主化運動に心血を注いでゆく。
晩年、林は小林秀雄と交友し三島由紀夫から尊敬されたというが、林は自分の人生をどう見つめていたのだろう。
時には文壇の会合やパーティで林は中野や佐多らと顔を合わすこともあったにちがいない。むろん、そんなことで呵責を感じたり思い悩んだりするほどナイーブでないとは承知するが、人はそういうことに対して死ぬるまで平静でいられるものなのだろうか。
こういう出来事は、遠い昔のことだと思っていた。が、そんな私こそナイーブだと恥じる。過去のことではなく今も起きている。今ここにある危機は、そういう引き裂かれた人生を歩む人物を生み出している。
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