インタビュー雑観
津野海太郎さんと話をしていて、お互いに気づいたことがある。インタビュー一つとっても、文章と映像ではかなり差があるなということだ。
津野さんは晶文社の名編集者であり現在和光大学で表現ということを教えたりもしている。
おそらくディレクターと編集者が同じ人物にインタビューするとしても、インタビューの仕方は違うしインタビュー内容も結果も大きく異なることだろう。
人と出会って、人から話を聞くというのは傍で見るほど簡単ではない。
例えば、取材ノートを持ち出すか持ち出さないかでもインタビューの場は大きく変わる。
ノートを取り出した途端、相手方が口を噤むことになりかねないので、その場でノートをとらず、終わった後でメモを作るという方法。
反対にノートをとりながら相手の話を一つ一つ確認しながら聞いていく方法。
映像の場合は最初からカメラという「記録装置」が話し手の目の前に置かれてあるから、ノートを出そうと出すまいと関係ないではないかと思われそうだが、そうではないのだ。
カメラの存在は、インタビューを開始して3分もすれば話し手の意識から消える。話し手が意識するのはインタビューする人(インタビュアー)のみになる。
だから話を聞いていると緊張で疲れることがある。相手の目を見ないで話を聞くと、相手は話す意欲を失ってゆくことが多い。だから目を見て話しをしてゆくのだが、これが辛い。
恋人同士ならともかくまったく他人の目をじーっと見つめる、しかも何分も何十分もなどという芸当はなかなかできるものではない。
先年、オノ・ヨーコさんに話を聞いたときは辛かった。あの黒目勝ちの大きな目でじっと見つめられるのだ。身じろぎ一つせずに。
だから、先輩から教えてもらった方法を私は使っている。それは相手の目のすぐ下を見つめることだ。微妙に真下だ。相手とまともに視線を交わらさないポイントを見つめることだ。これなら長丁場にも耐えることができる。
映像のインタビューで恥ずかしいのは、聞き手の底意が見えることだ。こういうことを聞き出そうと誘導しているインタビューほど浅ましいものはない。ワイドショーに多い。これは見ていて、こちら側が恥ずかしくなる。
インタビューがうまいなあと思う人は筑紫哲也さんだ。特に政治的でない野球や芸能のときの好奇心旺盛な場合の筑紫さんはいい。
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