
五月、目黒の空
目黒川のほとりを歩きながら見上げると、五月の空が広がっていた。
若い人が別離を前にして悩んでいる。その苦しさに沿うことができても、代わってやることはできない。ただ、そばでおろおろと見守るしかないが、リルケの言葉を教えてあげるだけはしてやろう。
昨夜、通夜から戻る車中でリルケの続きを読んだ。ドゥイノの悲歌の第一に、こんなフレーズがあった。
《恋しつつ恋するものから離れ、ふるえつつそれに耐えるべき時ではなかろうか。
矢が、飛びたつときに力を集めて自己以上の存在となるために、ひきしぼった弦に耐えるように。なぜならとどまるということはどこにもないのだ。》
とどまるということはどこにもない、とは若い頃思えなかった。どうしてと叫びたい思いをしたが、矢はやはり飛び立った。
そのことを老師のように忠告してやるつもりもないが、苦く思い出すことである。
だが、あのとき私は自己以上の存在となっていたのだろうかと、振り返る。少なくとも、当時の私にはそう思えなかった。その血はだらだらと流れ出、それを茫然と見るしかなかった。
リルケの新詩集の中に「別離」という詩がある。
別離とは暗い耐え難いむごい或るもので、美しく結び合わされてたものを「もう一度示し、さしだし、」そして引き裂いてしまう、とリルケは記している。
別れはその前にもう一度結ばれていた姿を現前化させたうえで、実行されるというのだ。
むごいことだ。
のこされたもの――
「郭公鳥(かっこう)がふいに飛び立ったあとの一本の李(すもも)の樹」
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