遺毛
夏目漱石の文学論原稿が真筆でなかったり、蝋管に録音された声が再現できなかったりで、私の漱石に関する番組企画はもはや無理だと断念しかけていたときだ。
内田百閒の著を手にした。『私の「漱石」と「龍之介」』である。ここにとんでもないことが記されていた。漱石の肉体を保持しているとある。
百閒先生が漱石の校正を任されたこともあって側近くにいたことは知ってはいたが、まさか漱石の「肉体」を所有していたとは思わなかった。先生は漱石の鼻毛を所有していたのだ。
百閒先生は漱石を心酔崇敬していた。だから近くにあって漱石のものであれば何でも収集していた。ちょうど私が大江健三郎に私淑して紙ナプキンであれノートであれ、大江が記したものはすべて保管したようなものだ。
いや、これは言い過ぎか。これではまるで私が百閒先生のような傑物のように聞こえる。そうではなくて仰望する心理というものはすべからくその人物の断簡零墨すべて集めたくなるということを言いたいだけだ。
「道草」を書いていた頃の書きつぶしの原稿の中に、漱石の鼻毛が10本あってそれを百閒先生は後生大事に保管していると、エッセー「漱石遺毛」に書いていた。
『猫』に苦沙彌先生が鼻毛を抜いている場面が出てくる。この図はまさに漱石そのものにほかならないものであって、漱石も執筆で苦吟するときなどに鼻毛を抜いていた。その数本を手にいれたと百閒先生は自慢していた。
これを読んで私はすぐ内田百閒の遺産はどうなったかを調べた。もし、この鼻毛があればそこからDNAを析出できる。とすれば、漱石の肉体的な特徴が発見できるぞと意気込んだのだ。
結果は徒労だった。百閒先生は後年大貧窮を体験し、めぼしいのものは売り払い何も残っていないということが分かったのだ。またしても、漱石の「実体」に迫ることは不可となったのだ。
と、ぼやいていたら、悪友がにやにやしている。「何がオモシロイノダ」と突っかかると、彼はこう言った。「バカだなあ。漱石の一番大事な肉体はちゃんと残っているじゃないか、あれを調査すりゃいいんだよ」一瞬、何のことを言っているか分からなかった。
「東大の解剖学研究室に夏目漱石の脳が保管されているって、たしか養老先生が書いていたぞ」
言われてみりゃその通り。早速問い合わせる。少しだけ脳の細胞の一部を提供していただけませんかねと丁重にお願いすると、文化財を毀損することは無理ですっと当然にしてツメタイ返事がかえってきた。
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